論潮〈回顧〉 中村葉子 今年はウクライナ戦争で幕を開けた。戦争によって今ある生活の基盤が容赦なく破壊され、多くの命が犠牲になるなか、生きることへの不安や危機意識が募る時代である。国内状況をみてもコロナ対応やインフレによる物価高騰をめぐって生活への不安は日々生じているし、さらに政治と宗教の癒着で政治への不信も高まった。こうした状況においていかに生きやすい社会を目指せるのか。多くの人々が新たなビジョンを希求しはじめている。この連載を通じて、現在の社会に不安や危機意識を抱く多くの人々は、大きくは二つの軸に分極化しているように見えた。 一方の軸に「ポピュリズム」や「陰謀論」の支持者として括られる人々がいる。アメリカのトランプ政権やイギリスのEU離脱にみられるように、急激なグローバル化によって「疎外された人々」(労働者階級)がポピュリズム政党の支持基盤となっている。彼らは経済的な格差の不満を既存政治やエリート階級、政治家へと向けるが、同時に、リベラル政治で「優遇」されてきたマイノリティへもその矛先を向けてしまう。トランプは人々の「犠牲者」意識を巧妙に煽って内部の分断を招いているわけだ(論潮三月号)。人は窮地に陥ったときナショナルな物語に飛びつきがちである。自分たちだけが救われたいという意識から距離をとりつつ、苦しみに喘ぐもの全体を良くする方向に意識の転換を図らねばならない。この視点で運動を実践している人々が各地ですでに現れている。すなわち「コモンズ」の考え方によって現行システムを変革しようとする人々である。これがもう一方の軸である。 宇野重規と中北浩爾の対談(『中央公論』一〇月号)ではグローバル化時代におけるマルクスへの関心の高さを指摘。格差社会のなかで雇用や生活をいかに守るかを「マルクスによる所有権」の問題から再考する動きに注目している。なかでも「コモンズ」(共有財)としての水、電気、土地、公園などの生活に必要不可欠な財産を誰でもアクセスできるように公営化する動きを取り上げて、こうした新たな思想的転換が、資本主義への根源的な批判となってあらわれているとする(宇野)。スペインでは地域住民の要求によって水道を公営化し低料金を実現、また観光地化によって高騰する住宅市場から住民の住まいを守る運動を展開してきた。これらの要求は住民の広場での集会で討議された意見が政党政治に反映されていくという、直接民主主義のかたちをとってあらわれた。こうした最低限の生活保障が人々の出自に関わりなく全体の困窮状態を解消しうるのではないか。 よって問われているのは全体の底上げを為しうるような経済システムと階級意識なのである。しかしこれが日本の政党政治において非常に脆弱であるといわれる。それはなぜか。杉田敦は日本ではリベラルが「多様性」の称揚に力点を置いたことに起因するという(論潮一〇月号)。 この因果関係は重要である。たとえばマーク・リラの『リベラル再生宣言』で言及されているように、リベラルの「多様性」重視は、ジェンター、民族、人種、性的志向などの個々のアイデンティティを尊重するのは良いが、それによって人々は闘う共通の基盤をなくしたといわれる。論潮六月号のインターセクショナリティ論でもこの点を強調した。インターセクショナリティ(交差性)という概念は、例えば黒人女性は黒人差別と女性差別の複合的な差別を受けていることを明確化したものである。が、そうした複合的差別構造を理解して、あらゆる差別問題に共に立ち向かうのでなく、その差異を強調しすぎることで運動内部に敵対関係が生じることもある(根来美和「複層的な交差点の時空間として捉える」『現代思想』五月号、論潮六月号)。つまり異なる立場のもののことはその本人にしか語る資格がないことになり、連帯の領野が狭まることになりかねないのだ。 さらに個人化されるリベラル的運動は実は資本主義のガス抜きとして体制を延命することにもなってきた。『企業的な社会、セラピー的な社会』で小沢健二は、様々な「社会運動」の現場で見られるNGOやNPOのセラピー的プログラムが個人の心理的な側面を問題にしてきたことを批判した。つまり社会から「疎外された人々」は本人の忍耐力やタフネスの問題に還元され、まるで企業戦士を育てるかの如く、結局は自己啓発・企業の能力開発主義と大差ないようなものになっていると説く。 その意味で昨今のリベラルの誤りは、ネオリベの自己責任のイデオロギーとじつに相互補完的であったことに集約される。「ホームレス」状態にある人々に対しても、あたかも本人の自堕落な性格やアルコールの問題などの「精神的弱さ」をエンパワメントするところに力点がある。だがその過程で搾取にもとづく経済構造や、差別それ自体への批判が消えてしまうのである。 「エンパワメントが力(パワー)に変換されない限り私たちが暮らす環境は変わることはない」と述べたのはBLM運動の牽引者であるアリシア・ガーザ(『世界を動かす変革の力』)であった。ポスト福祉国家の社会でもう一度社会を立て直すには、もはや自助努力だけでは無理である。「私」の問題系ではなく、「私たち」をつなぎ合わせる思想や実践がいま求められているといえる。(なかむら・ようこ=大阪公立大学客員研究員・社会学)