――当事者性とジェニュインの間で――文芸〈回顧〉 栗原悠 こと文芸の潮流について今年の一月から一二月までを一つの区切りとして総括することにあまり意味はないと思われるが、今回が私自身の本欄の担当最終回なので今までの時評では敢えてふれなかった文芸に関わるあれこれを踏まえながら形式的な回顧を残しておきたい。 思い返せば、本欄を担当し始めて最初に取り上げた小説がのちに第一六七回の芥川賞受賞作となる高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」であった。その時の芥川賞は、候補作を女性の手になる小説が独占した初めての回として大々的に報道されたのは記憶に新しい。小説家が自身のセクシャリティを公言していたわけでもなかったため、当時この向きにはかなり違和感を覚えた一方、書き手のアイデンティティに関わる情報が現在どのような意味を持つのかを再考させられる機会でもあった。 とりわけ年森瑛「N/A」は、主人公まどかの他者からのアイデンティファイに対する葛藤やまどか自身が他者に抱いていた先入見を巧みな構成で描いた一作として既に文學界新人賞を満場一致で獲得するなど高い評価を得ていた。そして年森自身が今日まで文章以外にはメディアに露出することなく活動を続けていることもあってか、(年森自身のインタビューも含め)「N/A」のまどかと小説家本人の関係に焦点を当てた言説を多く目にした記憶がある。 小説が描くのっぴきならない当事者性への関心の一例なのだろうかと見ていたのだが、実は同じようなことを一一月の月評で『文藝』、『新潮』、『すばる』各誌の新人賞を読んだ際にも感じた。各受賞作のうち、安堂ホセ「ジャクソンひとり」、黒川卓希「世界地図、傾く」、大谷朝子「がらんどう」はやはり登場人物のエスニシティやセクシャリティが重要なモチーフとなっているが、「ジャクソン」の錯乱した語りも相俟って、それらを一気に読んだ際に個々のエピソードがどの小説のものか迷子になりかけたほどだ。 就中、先の論点との関係で印象的だったのは、本時評でもやや批判的に取り上げた「世界地図」である。一一月回に書いたように、本作はさまざまなアイデンティティを持つ人物のオンパレード小説と言える。多くの評では、そうした人物造型がある種のモードとして持ち出されたように読めてしまったことが厳しい言葉を招いたようで、選評時にも都合の良い「設定」(小山田浩子)、「技」(田中慎弥)といった指摘があった。また、翌月の『文學界』では水上文の「それらは現実に生きられているものであって、小説を「現代的」に見せかけるための道具ではない」といったかなり強い語調の批判も見られた。 たしかに「世界地図」は、一般的な中篇にしては情報量が多すぎて人物造型が中途半端に終わってしまった感が否めず、拙評でもあまり積極的な評価を与えられなかったのは先に書いた通りだ。しかし揃って批判的に取り上げられる、モード的なギミックとして採用された各人物のアイデンティティという評価がどのような基準に拠ったのかは定かでない。むしろ読みにくさの点では「ジャクソン」も大差はないのだが、こちらは安堂自身の履歴も踏まえた上でその試みが概ね好意的に評価された(ただし、「ジャクソン」の可読性の低さは小説の企図に沿うものと読めたことは言い添えておこう)。 そう考えるとこの二作の明暗には、小説の技術的な面はさておき、目に見える形で示された書き手のアイデンティティの切実さが看過し得ない問題としてあったのではないか。年始に亡くなった石原慎太郎の好んだ表現を借りれば、そこで問われていたのは、テクストに対する書き手の「ジェニュイン」(真実なもの)の有無なのではないか。書き手の「本当」がいかに小説に具現されるのか喧しく議論していた時代の文学を研究してきた者としては、この手垢に塗れた問いが現代のさまざまなアイデンティティの表現に対する評価軸として再び息を吹き返しているのは興味深い事態に思える。 ところで石原が芥川賞選考委員の在任時に最も「ジェニュイン」を認めた作が、奇しくも石原の死去が報じられた数日後に急逝した西村賢太の「苦役列車」(第一四四回受賞作)であったことはよく知られていよう。その西村は、「苦役列車」や未完となった「雨滴は続く」など、破れかぶれな生活を送る己の分身とも言うべき北町貫多を主人公とした「私小説」に小説家人生のほとんどを費やした。その忠実さに石原が「ジェニュイン」を見ていたのは納得だが、一方で『文學界』の追悼特集では西村のテクストのフィクショナルな側面が関係者の証言などによって早くも漏れ出ている。時代の価値観と逆行するような小説外の振る舞いも含め、毀誉褒貶の激しかったこの二人の小説家の死は、書き手と小説の関係を問う現在の動向と不思議に響き合っていたのではないだろうか。 さて、そろそろ紙幅も尽きるので、年末回顧らしく個人的に最も印象に残った一作を最後に挙げておけば、それは山下紘加「あくてえ」だった。芥川賞での評価は芳しくなかった本作だが、今年いくつも読んだケア小説のなかでも飛び抜けてシンプルで力強かった。(くりはら・ゆたか=早稲田大学国際文学館助教・日本文学)