出来事に対する距離感の回復 論潮〈1月〉 森脇透青 「もはや論壇は失われた」という事実認識は、少なくとも一九七〇年代以降、すでに周知のものである。とりわけインターネット言説の怪物じみた速度と量に「論壇」がとって代わられたこの現代にあっては、現在目の前にあたかも「論壇誌」が存在するかのように書くことは、不適切だろう。いまやどんなメディアも各々の固定的あるいは瞬間的な「ユーザー」を満足させているだけであり、相互の交渉も闘争も、「公」としての論壇も存在していない。今月からこの「論壇時評」欄を引き受けた私は、この不在について語るというアポリアに直面している。「論壇は論壇時評のなかにしか存在しない」という何度も繰り返された皮肉が、いま私の耳元でも反響している。 だから残念だが私の課題はシンプルなものではない。私はまず、毎月生産される個々の特集を通じて、論壇の「喪失」について考えることになる。「論壇」なるものは失われている。それはなぜ失われたか。その輪郭をまた求めるとするなら(それは望ましいことか?)何が必要か。それは、現代日本の知的環境の構造と歴史をめぐる「考古学」的な課題であり、もっぱら過去にかかわっている。だが私の課題は未来にも関与している。たとえば「論壇は論壇時評のなかにしか存在しない」という陳腐な皮肉を再検討するなら、それが実はそれなりの真理をも内包していることが理解されるだろう。それは裏返せば、「論壇」とは「論壇時評」を通じて生成するという事実を証言しているからだ。論壇時評は論壇を発明する。すなわち私の第二の課題は、各々の「論壇誌」にいわばレフェリー役として介入し「闘争」の火蓋を切って落とすこと、それによって未来の「論壇」を発明することにほかならない。言い換えればこの時評は、時評でありながら、「現在」に対して奇妙な距離をおいて――つねに過去と未来に挟み撃ちされつつ――相対しているのである。 ところで、二〇二二年は「時評」にとって恵まれた年であった。様々な事件(戦争の勃発、元首相の殺害…)が、「いま」を論じる評論家たちに仕事を与えたからだ。たとえば保守系評論誌『表現者クライテリオン』二〇二三年一月号「特集=反転の年」は、二〇二二年を「ポスト・ポスト冷戦」(吉田徹)の切断線として総括しており、世相の暗さに反していかにも年末年始的な「祝祭」の感がある。一方、この特集において例外的なのが、自称ファシスト外山恒一の論考である。この特集に反抗するかのように、外山は二〇二二年に事件は起きなかったと断言する。外山にとって唯一問題なのは、地下鉄サリン事件あるいは九・一一以来拡大してきた抑圧社会・管理社会であり、テロを社会の「敵」と見做して一致団結し、その「正義」以外の要素を排斥する「第四次世界大戦」の情況である。だから外山は、安倍元首相殺害事件についても――それが「政治的」動機に基づくテロルではなく、私怨に基づく攻撃であったという点で――この「戦時下」状況を変化させるものではない、と切り捨てる。外山の視座からすれば、『クライテリオン』の祝祭など小さな「村祭り」にすぎないだろう。 だが、政治と私怨はそもそも分離可能だろうか。おそらくここで併せて読むべきは、『現代思想』二〇二二年一二月号「特集=就職氷河期世代/ロスジェネの現在」である。というのも元首相殺害事件の容疑者である山上徹也はいわゆる「ロスジェネ」世代に属しており、この特集でも多くの論者がこの世代と山上を引きつけて論じているからだ。外山が「第四次世界大戦」の大枠で事件を俯瞰し出来事を否認する一方、「ロスジェネ特集」は出来事の詳細にあくまでも固執する。出来事を語るには、いつでもこのふたつの視点の往還が必要である。 杉田俊介をはじめ多くの書き手が指摘するとおり、「ロスジェネ」という用語はそれほど信用にたるものではない。この語は貧困・格差・差別といった持続する構造的問題を特定の「世代論」へと縮減するおそれがある(特集内で「世代論」の正当性を検討した吉良貴之および鈴木洋仁の論考を参照)。必要なのは、世代に関係なく、貧困や差別にあえぐ者に対する恒常的な社会的・経済的なケアを端的に推進することである。しかし杉田はその点を自覚しつつ、「リベラルな価値観に基づく社会的包摂だけでは掬いきれない実存の叫び」のために、「ロスジェネ」という言葉をあえて用いている(「弱者男性」にしても同様)。藤田直哉もまた、杉田と同様、ゼロ年代における「オタク論壇」と「ロスジェネ論壇」の分裂から現代のインターネット言説までの推移を検討した啓発的な論考の結論部で、「イデオロギー(幻想)に変わる阿片を適切に提供」することの重要性を説く。外山とは対照的に、杉田・藤田にとっては、むしろ事件が実存――「私怨」――に基づくものだったからこそ、向き合う必要があるのだ。実際、「ロスジェネ」世代に属する者がこれまで起こした諸々の殺人事件を鑑みるとき、杉田・藤田の微温的な結論にそれなりの痛みと重みを見るべきではある。彼ら批評家にとってイデオロギーは問題ではない。政治経済に振り回され抑圧された「ロスジェネ」が、その私怨を通じてイデオロギーないしテロルへ向かうことを防止し、「阿片を適切に提供」することこそが、彼らの課題になっているのである。 「ロスジェネ」批評家はイデオロギーを遠ざけ、最低限の「ケア」を目指す近視眼的「諦め」を見せる。革命家はイデオロギーの復権を望み、大上段から「無理強い」する。だが、「ロスジェネ」以降あるいは「第四次世界大戦」下の思想が直面すべきなのは、まさに政治と実存の回路が適切に繫ぐがらなくなった、その「接触不良」ではないか。「ロスジェネ」以降の貧困な管理社会に順応した歴史的視野狭窄、ノンポリという名の政治の否認あるいは矮小化、欲望のミニマル化といった状況下で、(外山の言う意味での)テロルが「電撃的に到来する」ことはありうるだろうか。イデオロギーを肯定する革命的パフォーマンスはその展望において魅力的だが、現実の微細な変化に鈍感である。外山が政治と実存が直結していた時代(「六八年」)へのノスタルジーに陥っているとすれば、彼は出来事に対する同型の否認と退屈の表明を今後も反復することになる。他方、現状の悲惨を緩和しようとするタイプの批評は現実的ではあるが後退戦的で、マクロな歴史的展望と野心と魅力に乏しい。 必要なのは、実存が政治へとつながる別の回路を発明し、実存の強度を肯定する革命的かつ批評的な実践である(その意味では、外山が学生向けに開催している勉強合宿はそのような実践のひとつかもしれない)。いずれにせよ、彼らが知らないのは、出来事に対する距離の取り方だと私は思う。求められるのは端的なデタッチメントでも端的なアタッチメントでもない。私が論壇の未来に期待するのはおそらく、距離感の回復なのである。 ★もりわき・とうせい=一九九五年、大阪生まれ。京都大学大学院文学研究科在籍。専門は哲学(ジャック・デリダ)。読書人新書より入門書『ジャック・デリダ『差延』を読む』を三月刊行予定。「左藤青」名義で批評系同人誌『近代体操』を主催。Twitter:@satodex