――人間の根源的な営みへのちいさな問いの粒――文芸〈2月〉 山﨑修平 中西「狭間の者たちへ」、千葉「エレクトリック」、湯浅「ディスタンス」 中西智佐乃「狭間の者たちへ」(『新潮』)を読むと、人間という生き物の、業について考えずにはいられない。立川談志は「落語とは人間の業の深さの肯定である」と述べたが、小説という形態は、人間の業を余すことなく捉えるものなのかもしれない。業の深さや浅さではなく、過不足なく捉えるということだ。ときに過剰とも思われる説明調の描写も、瞬間、瞬間の生が連なって生きている人間を、言葉によってどうにか繫ぎ止めている営為であると考えると合点がいく。安易な共感などという暴力的な感情の表出を避けて突き放しているさまは、反社会的な(或いは非社会的な)行為への、こうせざるを得なかった、逃れ得なかった人間への眼差しへと収斂されてゆく。今、読まれるべき作品であることは、相違ないことであろう。 千葉雅也「エレクトリック」(同)は、記憶と記録のあわいにあるものへ指を届かせようとしていて、心に沁みた。過去を振り返ること、或いは過去と決別することは、過去と現在との二つの軸による批評的行為であると考える。一九九五年の宇都宮という舞台における高校二年生の「達也」は、現在二〇二三年に生きる私たちに読まれることによって、幾つもの論点を提示していく。それは大仰な論点ではなく、生きること、考えることという人間の根源的な営みへのちいさな問いの粒である。「達也」が、ときに立ち止まり、ときに懊悩するさまをもありのまま提示することは、作中に明示されずとも、三十年弱もの年月を幾度も思索しつつ往還しているようにも考えた。優れた作品である。決して今だけではなく、これより幾世代にも亘って語られるべき作品であると考える。 湯浅真尋「ディスタンス」(『群像』)は、頗る面白かった。単純明快に、面白かったでは、批評には成り得ないはずだが、この「面白かった」以外の言葉を許さない作品の佇まいがある。まず、一人称視点による語り手の「ぼく」が絶妙に描かれていて良い。無論、「ぼく」の感じたこと、思考が取り止めもなく述べられていくわけだが、極めて思弁的な「ぼく」は、小説的装置であるはずの他者の肉体や思考を司り、意のままに動かそうとしているかのようにも捉えられる。だが、このことは「ぼく」の与り知らぬところで勝手に起きていることであって、「ぼく」はあくまでも「ぼく」の良心と常識に則って思考をしている。この無意識の自我、無意識の他者性が僅かに滲み出ているところが、良かった。 石沢麻衣「獏、石榴ソース和え」(同)も良かった。湯浅氏の「ディスタンス」とは異なるがこちらも、一人称の「わたし」が特異であり、この描写の力が際立っている。本作では、物の捉え方に着目した。例えば、タイトルにもなっている、「石榴」という物の捉え方とその描写である。「強い陽射しに色褪せ、古びたような赤い皮の果実。その中にひしめく粒ひとつひとつは、抜け落ちた歯の形に似ている、とあなたは思うだろう」という描写は、「石榴」を仔細に描きながら、「石榴」の観察主体である「わたし」の内的衝動や心情の揺らめきをも表している。つまり、「石榴」を描写することによって、「石榴」を観察している「わたし」を書き表している。「わたし」は、登場人物である「あなた」も、「石榴」も、主体として観察しながら、投影している「わたし」自身を捉えている/捉えようとしている。優れた現代詩を読むような、或いは優れた短詩系を読了したような感慨を覚えたのは、この小説における描写、そして比喩の豊穣さに拠ると考える。常に次作が気になる作家である。 高瀬隼子「うるさいこの音の全部」(『文學界』)の持つエネルギーに圧倒される。笑いごとでは済まないことが起きているわけだが、(申し訳ないことに?)頬を緩めてしまう。この小説がシチュエーションを楽しんでいるようにも受け取れるからだろう。いや、楽しんでいるのではなく、どうにかしようとしたが結果的にこうなってしまったのかもしれないが、そうであったとしても、この顚末がこうして読者に提示されれば、上質な喜劇として受け入れることもできるのであろう。自己言及的な描写は、自己憐憫に陥るわけでもなく、淡々と、飄々と、自己を他者として捉えている。一つの読みとして、小説を書くことへのメタフィクションとして成立していると考えると、相当意図的な問題作、意欲作であると思う。そしてこの試みは成功しているのではないか。 西村紗知「ポップアンドカルチャートリロジー」(『すばる』)は、優れた論考であった。いささか各論的であるきらいもあったので、もう少し長い枚数の総論的な決着を読みたい。 『文藝』は、瀬戸夏子と水上文の責任編集のもと、批評を特集として打ち出した。批評の批評をするという挑戦的な試みは評価されるべきだ。本特集では特に、中尾太一「批評 この致命なるもの」が素晴らしい批評であったことを述べておきたい。(やまざき・しゅうへい=詩人・文芸評論家)