加賀乙彦の名よ、永遠に――特別文学賞設立の経緯ほか――寄稿=岳真也 加賀乙彦先生とは文学仲間(師弟)であると同時に、「飲み仲間」でもあった。 私はとくに日本酒が好きだが、焼酎でもウイスキー、ブランデーでも、何でも飲む。日本酒と同じ、醸造酒のワインも嫌いではない。 加賀さんはそのワイン、なかでも赤ワインが好物で、一緒に飲むときは、私も赤ワインになる。かつては日本文藝家協会(理事会)の二次会などで同席したが、コロナ禍でそれが出来なくなってからは、もっぱら私が本郷の自宅を訪ねて、グラスを交わした。 ときには二人で、またたく間に七二〇㏄瓶を一本、空けてしまい、二本目、三本目に及ぶこともあった。 飲んで酔っては、小説や文学の話に華を咲かせる。 加賀さんが私に「賞をあげよう」と言いだしたのも、そんな折のことであった。齢三十で突然死した次男のことを描いた小説『翔』に対して、である。生前の息子が心を病み、精神科医でもある加賀先生のお世話になっていたせいもあったのだろう。「三田文學」や「早稲田文学」で連作していたときすでに、加賀さんは同作を読んで、あれこれと私に指摘、指導してくれた。 その作品が二〇二〇年の秋に、牧野出版から刊行された。同作が充分に加賀乙彦の名を冠した「特別文学賞」に値する、というのである。 しこたま飲んでいたし、酔った勢いもあったろう。が、そればかりではない。 加賀さんは本紙に掲載された富岡幸一郎氏の『翔』についての書評をはじめ、「三田文學」での三田誠広氏、ほかにも幾多の評論家、作家が称賛してくれているのに眼をとめ、「これはもう、私が特別の賞をあげるしかないな」と判断されたのだ。そのことは書家・五十嵐勉氏の手になる賞状にも、明記されている。 ほかに宮中の「歌会はじめ」で加賀さんが披露した和歌の下書きが賞品に供され、つぎの飲み会の折に、ごく近しい「ワイン仲間」数人をあつめて、本郷のご自宅で「加賀乙彦・文学の会」主催の授賞式が行なわれた。二〇二一年の春のことだが、頂戴した賞状と賞品、先生が直に賞状を手渡している記念の写真は、今も私の大切な「宝物」として手もとに置いてある。 私の『翔』がその栄えある「加賀乙彦推奨特別文学賞」の第一回で、二回目は三田誠広さんの『遠き春の日々』(みやび出版)と藤沢周さんの『世阿弥最後の花』(河出書房新社)に決まった。 こちらの授賞式は翌二二年の春に、西新宿の割烹居酒屋「嵯峨野」で催行。残念ながら、式の半年ほど前、加賀さんはご自宅で何かに躓いて転倒し、以来、足腰をはじめ、そこかしこ病んで入院しており、欠席された。だが、まだお元気な頃にいろいろな作品を読んで、私とも相談し、「二作同時授賞で行こう」ということになったのである。 本紙にも取り上げられたが、第二回の授賞式はつつがなく、執り行なわれた。加賀先生とはしかし、その後もずっと、お会いできないでいた。コロナ禍のために面会がゆるされなかったのだ。ようやくにしてお目通りが叶ったのは、二二年の師走。加賀さんが入所していた医療施設完備の介護所に、私が訪ねて行ったのである。 ただ、それは「面会」と言えるか、どうか。 加賀さんは介護所の一室に寝かされていて、点滴のみで、かろうじて生命を保たれていた。食物も口にすることが出来ず、喋るどころか、私がそこにいることさえも分からない。 そうして複雑な気分のままに、私はその埼玉の辺地にある介護所をあとにしたのだったが、それが先生との最後の「逢瀬」となった。一ヵ月後に、訃報が届いたのである。享年九十三。死因は「老衰」だという。 私自身が高齢に達した今、加賀さんは私が「師」とよべる「最後の人」であったと思う。芸術選奨をはじめ、数々の賞を獲得、文化功労者にもえらばれた作家だ。『フランドルの冬』や『宣告』『湿原』など、秀作・佳作はいくつもあるが、なかでも秀逸なのが『永遠の都』と『雲の都』。ライフワークであり、中国語、韓国語、ロシア語にも翻訳されている。欧米語に訳されていれば、ノーベル賞を得てもおかしくはなかったろう。 けれど、栄枯盛衰は世の常か、最近は人びとの活字離れも進み、作品のタイトルどころか、没後幾年も過ぎると、作家名すら忘れられてしまいがちだ。代表作をからめた洒落ではないが、加賀乙彦の名を「永遠」に残したい――その一心で目下、本年度(第三回)の加賀賞の選考準備を進めている。 「推奨」の二字はここで改めて、「加賀乙彦顕彰特別文学賞」とする予定である。 加賀さん、加賀乙彦先生、ゆっくりとおやすみ下さい。あとは私たちが、その名を幾久しく、永遠に伝えられるように頑張りたいと思います。合掌。(がく・しんや=作家)■加賀 乙彦氏(かが・おとひこ=作家・精神科医)一月一二日老衰のため死去した。享年九三。