「真の弱者」争いが持つナンセンスさ 論潮〈3月〉 森脇透青 薄暗い部屋で正午直前に目覚めて、眠い眼をこすりながら布団のなかで携帯を眺めると「高齢者は集団自決せよ」という鮮烈な文言が目に入ってきて、もう一度目をつむろうか迷った。イェール大の経済学者・成田悠輔のニュース番組での発言である。 成田によれば、社会保障問題をそもそも引き起こさないためには、また各業界の停滞の原因である(と成田がみなす)「老害」を追放するためには、高齢者は「自決」の道を選ぶしかない。こうした主張が『ニューヨーク・タイムズ』の記事(二月一二日)に取り上げられ、その後全世界中で報道されるに至った(遅ればせながら、日本でも報道が「逆輸入」され、批判の声が上がっている)。これを人道的な立場から批判するのは簡単だろう。しかし、真に成田が批判されるべきは、彼が「自決」はたんに「抽象的な隠喩」であり、実際には世代交代を問題にしたにすぎなかったと釈明した点であるように思われる。彼はむしろ自決の文化と歴史を「正面から」参照して、なお堂々と世代交代論を展開すべきだった。実際、成田はそのほかの番組で「ハラキリ」や三島由紀夫の自決と自身の言説を具体的に結びつけていたのだから。三島論でも書いたらいかが? それにしても、この手の凡庸な炎上はこれまでに何度も起きている(たとえば『文學界』二〇一九年一月の古市憲寿と落合陽一の対談)。今回、成田を「キャンセル」したところで、社会正義はウソであり欺瞞だと叫ぶ「逆張りアジテーター」は今後もかならず出現するし、それなりの支持を受けるだろう。問題は構造的であり、かつ世界的(・・・)である。木澤佐登志は、その啓発的な論考「イーロン・マスク、ピーター・ティール、ジョーダン・ピータソン 「社会正義」に対する逆張りの系譜」(『現代思想』二〇二三年二月号)で、アメリカの「ネオリベ」起業家たちのイデオロギーとその系譜を描いているが、そのイデオロギーは日本の「逆張りアジテーター」たちともおおよそ共通する。他方で、木澤が指摘するのは、とりわけティールやマスクによる左派批判の背景に潜むニーチェの影響である。「適者生存」を是とするネオリベラリズムのイデオロギーを担保するのは、アメリカにおいては(俗流の)ニーチェ解釈であり、そうした視点からは、誰もが平等に生きられる(べき)とする民主主義的・多元主義的社会は「畜群」たちのルサンチマンに基づくものでしかない。 かくして、旧来のリベラルの「woke」(目覚め)ぶりが、「欺瞞」として嘲笑すべきものとなる。そもそも黒人英語に由来する「woke」はBLMの運動においてスローガン的に採用されたものだが(「stay woke!」=意識的であり続けよう)、現在では差別をはじめとした人権問題・社会問題に意識的な人間を嘲笑するスラングと化している(往々にして「意識高い系」と日本語訳されているが、私はその翻訳には批判的である)。たとえばトランプ政権で国務長官を務めた右翼政治家のマイク・ポンペオは、多文化主義を批判して、「そろそろwoke―ismをただただ眠りに就かせる頃合いだ」とツイートした(二〇二一年一月)。 こうしたイデオロギーは日本ではひろゆき(西村博之)や堀江貴文の言説に見られる。しかし他方、伊藤昌亮「ひろゆき論」(『世界』二〇二三年三月号)は、木澤が示したネオリベラリズムの優生思想的側面とは異なる側面を描出している。伊藤によれば、ひろゆきはたしかに弱肉強食的な論理を多用するが、それのみならず、社会でうまく適合できない「ダメな人」(「コミュ障」、「ひきこもり」、「うつ病の人」など)に対するまなざしを持ち合わせており、それによってポピュリズムとして成功している。ひろゆきは「弱者」を切り捨てたのではなく、その概念を更新する。この観点においては、旧来の左派運動のなかで定義されてきた「弱者」たち(高齢者、外国人、女性、LGBTQなど)は既得権益と共犯的で欺瞞的な「偽の弱者」と見做され、むしろそこで掬い上げられない「ダメな人」=「真の弱者」たちのサヴァイブこそが問題となる(それはトランプを支持した白人男性たちとも同様の論理である)。たとえば先日『週刊文春』(三月二日号)で報道された上野千鶴子の「スキャンダル」が引き起こした反応は、まさに範例的である。報道内容そのものについてはここでは措くが、タワマンに住み、BMWで深夜の中央道を爆走するブルジョワ・フェミニスト(上野は当然、成田のいう「老害」的な高齢者にも含まれよう)は、彼らにとって代表的な仮想敵であって、その醜聞(?)はまさに、「正義の欺瞞」を暴く福音として受け入れられた。 興味深いのは、こうした「真の弱者」の論理が、いまだ、奇妙に六八年以後の左派運動に似ていることである(カウンター・カルチャーに対する彼らの憎悪と嘲笑にもかかわらず)。第一に彼らは、その適者生存論の影に相変わらず「弱者」や「差別」の論点を温存している。第二に彼らはリベラリズムを既得権益の欺瞞と見做し、権威に対する反抗者(カウンター) として自身を位置づける。それはいまだ「抵抗の論理」だが、このとき彼らにとって抵抗すべき権威は国家でも資本でもなく、「偏った」メディアや教育制度である(さらに極端な場合は「ディープステート」である)。こうした逆張りの論法において、彼らはカウンター・カルチャーを冷笑しながら、その体質(スタイル)を継承する。 それはいわば反体制運動の劣悪な「パロディ」なのだ。だとすればその争いは、その一側面において「誰が真に救われるべき弱者なのか」、「どちらが真の反体制なのか」をめぐる歪んだ闘争となる。この共犯的な堂々巡りにおいては、より敗北した方が勝ちであるかのようだ。しかし、端的に言って完全な「弱者」も「反体制」もありえないのだから、戦いに終わりはない。一人の老人でさえ強さと弱さを同居させており、ある局面で抑圧者に、ある局面で被抑圧者になる。だとすれば「真の/欺瞞的な」弱者救済、という二項対立は初めから無効であり、いかなるエンパワメントもケアも多少の欺瞞を内包することになる。しかし、「欺瞞暴き」に頼る貧弱で潔癖な真理観はもうやめにしよう。欺瞞的でない立場などない以上、私たちは多少の欺瞞を承知しつつあえて正義を肯定するほかはない。少なくとも、woke-ismを批判しうるのは、「寝ぼけた」逆張りではない(それは欺瞞を暴く単純な快楽に溺れているにすぎない)。 私たちは、いまなお徹底してwokeであろうとしなければならない。stay woke! だが、当のwoke―ismはいま、本当に目覚めているのだろうか? それとも私たちはいまだ夢のなかにいて、蜂起したつもりで布団から出られないのか? まさにこの狂気じみた誇張的懐疑を起点とせねばなるまい。このときwoke-ismそのものの目覚めのために、むしろ眼を灼くほどの——「大いなる正午」の?——強烈な陽光が要請されるだろう。カーテンを開けよう。さていまこそ、爽やかな朝の目覚めを! (もりわき・とうせい=京都大学大学院文学研究科・哲学/Twitter:@satodex)