――韻律と散文の意味の融合、平穏と不穏のあわいの描き方――文芸〈3月〉 山﨑修平 甫木元空「はだかのゆめ」、初谷むい「心底おもいます」、畠山丑雄「改元」 文芸誌を繙くと詩歌に所以のある人による小説が散見される。寧ろ、執筆していない月の方が珍しくなった。いや、このこと自体は何も珍しいことではなく、近代文学からの歴史という枠組みで考えれば、枚挙にいとまがないことである。評者の考えていることは、詩歌に所以ある人の書く小説というものが、狭義の、そして従前の〈小説〉に留まっているのではないかという問題提起なのである。敢えて詩歌の武器・特性・長所を手放してまで先に何を見据えているのだろうか。つまり、文芸誌(主に小説の発表の場として)が詩歌に接近しているというよりは、詩歌の方から小説に歩み寄っているのではないかと考えている。評者は詩歌と小説の垣根を越えた文学的営為の交流に好感を抱きながら、同時に小説と詩歌の差異、つまりそれぞれの独自性、より踏み込み述べるならば、詩歌のもつ抗えない宿命のようなものが、さながらオアシス間を交易するがごとく行き来できうるものなのか、疑問を抱かないわけでもないのである。そして何より詩歌の人々の書く小説の多くが、良くも悪くもその人らしさ、その人が詩歌で拵えてきた文体のオマージュになっている現状を鑑みるに、どうしても小説という形式・器でなければならなかったのか、もっと論じられるべきではないだろうか。 その点を踏まえながら、谷川俊太郎×高橋睦郎「詩の生まれるところ」(『すばる』)での、「ぼくはその人自身の文体を持たなきゃいけないという考え方には反対なんです。作品一篇ずつのテーマに相応しい文体がその都度必要であって、個人の文体なんてどうでもいいんだっていう考えです」という高橋の言には、膝を打つ思いがした。詩歌の文体とは、個々の作品の文体であって、作者の文体に、かりそめにも作者自身が専売特許のように意識的であることに評者も反対の立場をとる。あくまでも文体は流動的・実験的かつ更新されうるものであるべきだ。 作品の文体について考えながら、甫木元空「はだかのゆめ」(『新潮』)での文体に着目した。オノマトペや、言いさしの言葉、会話文、多用される体言止めは、どのような効果を意図しているのか。あるいはここで、「音楽的」であるとか、「リズムが心地良い」という評者の主観によって曖昧に批評することもできるだろう。だが、それだけでは表し得ない何かがある。そう、本作には物語のもつ意味や内容に回収されない何かがあり、その何かが触媒となって物語に奥行きを与えようとしているのではないか。本作の読みにくさ、特に会話文におけるやり取りがもどかしい点に、決して賛成はできないが、実験的な精神に対しては大いに評価されるべきだ。 初谷むいの「心底おもいます」(『文學界』)「巻頭表現」は、一行詩とも言うべき短歌作品がある。「ゲーム機の指紋の線が 眼鏡についた涙の痕が 生きてるよの光です」という本作での一首を、定型に当てはめていくと「ゲーム機の」「指紋の線が」「眼鏡についた」「涙の痕が」「生きてるよの」「光です」になるだろうか。五・七・七・七・六・五の広義の一行詩と解釈した。評者は、短歌は定型を遵守しなければならないという立場を取らない。そしてこの一行詩を短歌と解することにも反対する蓋然性に欠ける。寧ろ、この一行詩のもつ定型でありながら散文的という、韻律と散文の意味が融合した文体に惹かれる。本作の延長線上に、今の詩歌と小説の接近を解き明かす鍵の一つがあるのではないか。 リズムについて考えながら、畠山丑雄「改元」(『群像』)の静けさについて考えている。ゆったりとしたリズム、そこから平穏な様子を紡ぎながら、どこかに不穏な陰を潜ませている。「町」という個々の人間の集合体が織り成す社会共同体が、小説の言葉によって個に収斂されるとき、「町」は息づき、生命として此処にあるかのように存在を明らかにする。本作では、植物であるあやめの描写に惹かれる。「私が背後から抱きすくめると、あやめは力なく指のあいだを抜け落ち、あるいはそのあやめが抜け落ちたのが先で、私が抱きすくめさせられたのか、ともかくいやに濃厚な芳香だけが宙にとどまる」。先述したように、植物のあやめの描写であるのだが、妙に艶かしく官能的でもある。人物を描写したのではないかと見紛うほどの書き方に、本作のもつ平穏と不穏のあわいの描き方に通じるものがあると考える。 岡田利規の戯曲「部屋の中の鯨」(『新潮』)は優れた創作である。本文中に「(せりふは自由に配分して行ってください。)」とあるから、舞台上の発話者は、テクストの仲介者としての役割のみを担っている。いや、この「役割のみ」という書き方は、如何にも演劇の知識が浅いもののイメージする〈戯曲〉なのだろう。テクストはもとより開かれていて、あまねく誰にも発話者たる資格はあるのだろう。 こうして思考は、冒頭のテーマに戻るのである。文体とは何か、詩歌の文体、小説の文体とは何か。(やまざき・しゅうへい=詩人・文芸評論家)