画一的なリズムに抗するデリダのスタイル 論潮〈4月〉 森脇透青 現代は入門書の時代である。毎年、さまざまな分野に関して入門書の類が数多く刊行されるし、それに類するイベントや書店のフェアもよく見かける。その盛況ぶりは、文芸誌が「入門書」特集を組むほどだ(『文學界』二〇二二年八月号)。それはもちろん、いまだ人々の知的好奇心が失われていないことの証左だろう。 この時評が公開される頃、デリダについての入門書が刊行される(森脇透青/西山雄二/宮﨑裕助/ダリン・テネフ/小川歩人『ジャック・デリダ「差延」を読む』読書人、二〇二三年四月六日)。デリダは一九三〇年にアルジェリアに生まれ、二〇〇四年に没したフランスのユダヤ人哲学者である。とりわけ、哲学、文学、政治、教育といった分野で、その影響はいまだ根強い。この本の元となったのは、私が脱構築研究会との共同で行ったデリダについてのイベントである。全体の六割ほどを占める解説パートは私が担当しており、他の執筆者には本書第二部「討論」パートで種々の問題提起・補足を行ってもらっている。解説の対象となるテクストはジャック・デリダの一九六八年の論考「差延」(『哲学の余白(上)』藤本一勇訳、法政大学出版局に所収)である。 私は『「差延」を読む』を書いているとき、何かしら「入門書の時代」への軽微な違和感を抱えざるをえなかった。本書の序文には、その違和感がそのままに書きつけられている――「私たち個人の生活や人生や趣味が「こちら側」にあって、「あちら側」に理論や歴史や研究や批評があって、そこに入りやすい「門」から入りこんでいく」ことは「自明」だろうか、と。もちろん、ここで私は入門書を表層的・安易なものとして糾弾し、難解な専門書を擁護しているのではない。私には単純に、まず簡単な概略から出発し、徐々に知識を蓄えて難解な本に挑戦していくような積み上げ式の「プロセス」が、根本的によくわからないのだ。そうしたプロセスは「知」のきわめて部分的な側面でしかない。 実際、デリダはその手順では理解しづらい哲学者である。かつて蓮實重彥が七〇年代に『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』で発見したのは、何よりもまず、デリダのテクストの「信じがたい明快さ」、「驚くべき簡潔さ」だった。まず、デリダに関して枕詞のように用いられる「難解な哲学者で知られるが……」などという紋切り型をやめにしなければならない。実は、デリダの「脱構築」とか「他者」とか「正義」とかいった文言は、彼自身のテクストを無視してスローガンとして理解するだけなら驚くほどに簡単である(デリダは親切にも、しばしばその内容を要約して提示してくれる)。けれども、困難は、書きつけられたデリダの文言を具体的なものとして捉えようとしたときに生じる(それはデリダのみならず、テクスト一般の困難である)。それに挑もうとして彼の文言のひとつひとつを追いはじめると、途端にデリダの文体は入り組んだ迷宮のような風貌を見せはじめる。 だらだらと終わりなく続きそうな、その文体の迷宮を無限に進み続けることも可能だろう。だが思い切ってその迷路を「攻略」したいならば、必要な導きの糸は積み上げ式の知識だけではない。必要なのはむしろリズム(・・・)である(デリダは「リズム」にこだわった思想家でもあった)。つまり、書くための文体(スタイル)があるのと同様、読むための文体(スタイル)も存在する。読み手がそれなりの欲望と戦略――このふたつの語彙は、『「差延」を読む』のキーワードともなっている――をあえて持ち、テクストのなかにリズムの強弱を導入しさえすれば、デリダのテクストは急速にある明確な形象をみせはじめる。こうした欲望と戦略をもたないかぎり、デリダにかぎらずいかなるテクストも出口のない閉じた球体でしかないだろう。 『「差延」を読む』の解説は、「差延」論文を頭から順番に精読し、言い回しにこだわり、デリダが引用するものを読むという「地味な」スタイルで書かれている。むろん解説そのものはあくまでリーダブルなものとなるよう努めたし、さまざまなデリダの重要概念も必要に応じて解説した。しかし私はデリダの「真理」を教師のように一方的に示したつもりはない。強いていうなら私は、私自身の読解のリズムをひとつのサンプルとして示しただけである(ドゥルーズはかつて「講義はロック・コンサート」だと述べていた)。あとは読者がそれぞれのリズムにおいて、「攻略」の方法を発見しなければならない。方法(method)は、道(hodos)を語源のひとつに持つ。安全な「方法」などない。それは迷宮のただなかでそのつど切り開かれるものである。解説特有ののっぺりとした平明さ、解説者の語調にテクストを回収するやり方、読者との不必要ななれあい、親切なふりをした見下し、時代や流行との無自覚な共犯、生気のない情報の羅列からは積極的に距離をとらねばならない。 実際、たぶん私が惹かれてきたのは「入門書」の癒着的親切さよりもむしろ、批評家たちの身勝手さの方だった。批評家たちはきわめて不親切で押しつけがましくテクストを読解し、おのれのリズムを強要してくる。このような「強要」はもはや必要ではないかもしれない。もはや私たちはたとえば(デリダのような)西洋哲学や文学のテクストを、日本語で、身近な問題として、「素手で」、親切な教師に教えられて、読むことができる。それは翻訳者たちの功労と達成に負うところが大きい。だが他方で、翻訳が原理的には異文化を我有化し同化する暴力でもありうることは、ゲーテ以来知られている。私たちが西洋的テクストをあたかも「身近なもの」かのように読むとき、他者に通じているようでいて、ナルシスティックな自閉と暴力に陥る危険はつねにある。 私たちはもはや文化的差異を乗り越え「普遍的」に思考するようになったのか。それとも、たんに画一的で単調な「リズム」に飲み込まれているだけなのか。デリダをいま読まねばならないとすれば、まさに慎ましくも危険なリズム・チェンジのためである。晩年のデリダは、グローバリズムが生み出す画一的なリズムを批判しつつ、つねに時事的でありながらも、それを「別のリズム」において語ることを知識人の責任として規定していた。たとえば日本においても、批評家たちは(少なくともある時期まで?)そのような「別のリズム」を生み出していたのではないか。たとえば「批評家」としての柄谷行人は、観念としての「普遍性」の単純さを批判する一方で、「西欧」と「日本」のズレをつねに問題提起し、それを通じて逆説的に「普遍的」たろうとしてきた。その彼こそがいまや世界的「哲学者」として知られるようになったのは、きわめて興味深い。おまけに、そうした活動を続けると一億円がもらえるらしいのだ(「賞金1億円の使い途」『文藝春秋』二〇二三年四月号)。いま私は一億円が欲しい。(もりわき・とうせい=京都大学大学院文学研究科・哲学、批評系同人誌『近代体操』を主催。Twitter:@satodex)