――生き物のように、常に拡張し、収斂する小説というもの――文芸〈4月〉 山﨑修平 鈴木涼美「浮き身」、屋敷葉「いっそ幻聴が聞けたら」 昨年の文藝賞受賞作である、日比野コレコ『ビューティフルからビューティフルへ』の書評「絶望を反転させるエネルギー」を、詩人の文月悠光が『すばる』に寄せている。文月の批評は、タイルをひとつひとつ丁寧に壁へと設える職人のように懇切丁寧に組み立てようとしているとも読み取れ、日比野作品の論点をどうにか言語化しようという気概に溢れているとも、受け止めることはできる。文月は、日比野作品に対して「本作は一般的な小説の書き方・読み方を壊してくる。読者は自分の理解や共感を間に挟むことなく、文章のリズムや響きを頼りに言葉そのものを丸呑みさせられる」と評している。ここで私は、「一般的な小説」という語句に注目した。確かに、文月の書評をすべて読めば、この「一般的」という語句は、日比野作品が、型破りな、或いは既成概念に囚われないものである、という肯定的なニュアンスで用いていると判断することも出来る。私は、日比野作品を極めて肯定的に評価するため、このニュアンスによる解釈で正しいのだとしたら、同調する。そして、この文月の「一般的」という語句から、私たちは小説を読んだときに、何をもって「一般的な小説」であるかを判断しているだろうかと、考えるに至った。敢えて述べるまでもなく、「小説」という形態がこの世に現れたときから、今日に至るまで、明確な小説の定義が厳然としてあり、綿々と受け継がれているわけではない。発表時には「小説ではない」、或いは「読むに値しない」とされた「一般的ではない」小説が、今日では小説の定義を語る上では欠かせないもの、つまり「一般的な小説」と目されるものも枚挙にいとまがないほどにある。小説(の定義)は、さながら生き物のように、常に拡張し、或いは収斂しているもの、であるというのが私の考えである。その点を踏まえて敢えて述べるならば、日比野作品における、言葉を解体し、手ずから再構築し、膨大なオマージュやコラージュを用いた造り方は、先人の作品を浴びた世代である作者による二〇二三年現在では極めて一般的(・・・)かつ王道を征く佳品であると、私は考える。 鈴木涼美「浮き身」(『新潮』)を幾度も読み返した。ひとつひとつ気になる点をメモに取りながら読んでいたのだが、読み終える度に新しい発見がある。それはなぜだろう。小説内の時間軸は、現在起きていると捉えているものが、まずは示される。所謂コロナ禍という語句に集約される、行動を制限され、また制約のあるなかに生きている私たちという像であるのだが、この不自由さから、十九年前の記憶が掘り起こされてゆく。意外なほどに、十九年前の記憶の描写がビビットである。描写では、特に嗅覚に代表される五感の描き方が卓越している。十九年前の記憶であるから、本来なら、ところどころあやふやになるだろうし、ましてや嗅覚を、今ここにあるかのように思い起こすことが出来る人は、そもそも稀有であるだろう。自己の記憶が改竄され、ときに思い込みもあるだろう。ところが、この小説では克明に石碑へ刻むように書かれている。それほど忘れ難い記憶であったと解釈することも出来るし、書かれている時間、つまり作者は現在書いているわけだから、当然鮮明に書くことが出来るわけである。他方で、現在の時間軸の描き方が抽象的かつ芒洋としたものになるのは、私たちは現在という流れる時間の「一部分」のみをコップに注ぎ込んで観察することを、困難としているためであるからなのだが、こうして小説として書かれたものに読者として接するとき、人は記憶の描き方、つまり記憶との折り合いの付け方というものを考えることから避けられないと痛感する。ここで私が考えるのは、ややもすると煙のように霧散していってしまう記憶の描き方であり、或いはこれまで小説という枠組みが記憶をどのように描いてきたのか、逃れ難い記憶をどう小説は描くべきなのか、という問いである。一般的(・・・)な小説、というものがないように、一般的(・・・)な記憶の描き方も未だ定まらず流動的であるというところに敢えて踏み込んだと考えると、寧ろ本作における挑戦の現れでもあり、最前線の何かに触れている予感を感じることができた。 『文學界』の特集「作家とギター」は愉しいだけではなく、示唆に富んだ特集だった。書き手は言語化できないものをそれでも言語化し、作品として残しているわけであるが、こうしてギターという楽器について愉しく語る作家の言葉に接すると、如何に楽器が、言葉よりも雄弁に物語っているかということを改めて考えるきっかけとなる。今回は「作家とギター」というテーマであったが、例えば「作品とギター」というもう一つの軸を設けた上で、先行研究を調べ上げ、比較検証すれば、一つの論考になり得るほど、興味深い特集であった。 林芙美子文学賞受賞作の屋敷葉「いっそ幻聴が聞けたら」(『トリッパー』)は、文体の、特に語尾が「た」で整えられたところに注目した。次作が気になる作家だ。(やまざき・しゅうへい=詩人・文芸評論家)