――書く行為と書かれたものの鬩ぎ合いによって生まれたもの――文芸〈5月〉 山﨑修平 青柳菜摘「詩人の病院」、石沢麻依「マルギット・Kの鏡像」 大江健三郎氏の追悼が各誌に並んだ。様々な角度から大江氏の作品・言葉に触れ、氏との記憶が雑誌に書かれることによって記録となってゆくさまからは、悼むこと、そのものが文学の要素の一つであるということを改めて認識させられることとなった。それと同時に、なにか大切なものが、欠落したままここから過ぎてゆくような恐ろしさをも覚えた。喩えば広く「文学」というものに対しての些細な、然し乍ら極めて重要な、私たちそれぞれの認識の差異を、それでもあくまでも「差異」として繫ぎ止められたのは、大江氏をはじめとした知識人たる先人の文業があったからではないか。今、この膨大なものがどのようにして継承されるべきなのかと、暗澹たる感情を抱いてしまう。次の世代が如何にバトンを受け継ぐか、試されている。 いや、それでも日本語の文学の未来は明るい、大丈夫だ、と我が身を叱咤できるのは、第二八回中原中也賞受賞後第一作「詩人の病院」を『現代詩手帖』に発表した青柳菜摘の作品のような希望があるからだ。砂漠に迷い乾ききった臓器を潤すような、瑞々しく滴る、どこまでも自由で、自由であるが故に底知れぬ恐怖をも引き連れてくる、優れた言語感覚によって編まれた詩だ。「詩人の病院」という詩が詩人によって書かれるというメタ的な要素も愉しく、此処には切実(無論テクストとしての)でありながらも、これから舞踏を始める前に全身を敢えて脱力させている舞踏家のような自然な構えがある、稀有な才覚だ。「文芸時評」は何故か(?)小説を取り上げることが主体として構成されている昨今、こうして新鋭の詩をときには取り上げることこそ、文芸の今、此処を端的に示すことになると私は考える。 同じように、石沢麻依「マルギット・Kの鏡像」(『文學界』)も才が迸っている。人間の身体的動作は、そのすべてが意識的になされているのではなく、例えば太陽光が眩しいとき眼に手を翳すのは、反射的な動作であり、一瞬の出来事である。だが、そのことを(小説に限らず)書くとき、(或いは書かれたものとして捉えても良い)私たち読者の多くは、整理され理路に従った身体的動作を読み取ろうとする。私たち読者は「書かれたもの」を受け取るしかないため、致し方ないのだが、書かれたものの前には、作者による「書くこと」が当然あるわけであるから、この行為をどのように読み取るかが一つのポイントになると考える。石沢作品における抑制の効いた身体の動作表現は、過不足ない、というよりは寧ろ、ある部分の表現としては過剰であり、またある箇所では不足している。然し乍ら全体としての按配が絶妙なのだろう、私たちは過不足がなく絶妙に抑制の効いた表現という感覚を覚えてしまう。妙技だ。「特集」である、「〝幻想〟短篇競作」に収められた作品であり、確かに石沢作品からも「幻想」を感じるが、私にはストーリーそのものよりも、文体として「幻想」を感じさせることこそが、何よりも大きな意義のあることだと思う。 私はかねてから、小説を書くことは批評行為である、と考えている。「何を書くかではなく、どう書くか、それしかない」ということを言うと訝しげな顔をされることも少なくない昨今、それでも小説というのは、書く行為と書かれたものの鬩ぎ合いによって生まれたものでしかないと考えている。 その点において、今月、最も小説という名の批評を際立たせた作品は、藤原無雨「グッド・バイ・バカヤロ」(『文藝』)だった。この小説のあらすじを語ることにはあまり意味がなく(・・・・・・・・)、愚直なまでに書き連ねられた、実験的に立ち上がったポリフォニーが鳴り響いているのを、そのまま味わうという心地よさしかない(・・・・・・・・)。『文藝』編集部協力のもと(?)フォントから文面構成まで何から何まで巻き込んだ先には、この小説を形作り、小説を疑い、小説を信奉している、テクストが浮かび上がってくる。 嶽本野ばら「ブサとジェジェ」(『三田文學』)にも惹かれた。ディテールへの拘りにより到達した文体の精確さ、そしてそれを支える豊穣な語彙による描写は、作者の自家薬籠中の物であるだろう。私は、以前の作品に較べて僅かに拡がっているところに注目をした。この拡がりはカーテンの隙間から差す陽光のように、作品全体を円(まる)めて確実に支えていると考える。現時点では、この拡がりが何によって齎されているか判断がつかない。次作が誕生することを常に心待ちにする作者の一人である。 同じく『三田文學』から、岡本啓の詩である「百年のリハーサル」にも惹かれた。これまでの岡本作品に較べてより風通しが良く感じるのは、行分け詩の空白によってであるだろう。優れた詩人による詩は、空白にも書かれている。行分け詩の空き行もそうであるし、その詩人による散文やエッセーにおいても、余韻や意味の操作が適切に行われている。私たちは書かれているものの意味を追い過ぎている。もっと書かれていないところを読むべきだ。(やまざき・しゅうへい=詩人・文芸評論家)