批評の変動が提起する場所論的問題 論潮〈6月〉 森脇透青 人文書院は、今年の四月から野心的なNote企画「じんぶんのしんじん」を開始している。その第一シリーズは「批評の座標――批評の地勢図を引き直す」と題されており、新人の批評家・ライターたちが過去の批評家たちについて語る文章が月二本ほどWeb記事として掲載される。これまでに掲載されたのは赤井浩太(小林秀雄)、小峰ひずみ(吉本隆明)、西村紗知(浅田彰)で、次回は松田樹(柄谷行人)である。紹介されている固有名の古風さが気にかかるが、現在ではむしろ、それを貴重なオリジナリティとして受け取るべきだろう。 公平を期すために言っておくが、私も七月にこの企画で文章を掲載するので、ここでの紹介はやや身内びいきである。だが、それを抜きにしても、人文書院のようなどちらかというと硬派な――しかも京都を拠点とする――出版社(その来歴については栗田英彦編『「日本心霊学会」研究』を見よ)がこのような企画を開始したことは、日本の論壇における一個の出来事と言わねばならないだろう。群像新人評論賞(群像・講談社)やすばるクリティーク賞(すばる・集英社)といった賞が軒並み凍結され、大手出版社が新人批評家のピック・アップを実質的に放棄し、批評を遺棄(ネグレクト)している現在においてはなおさらである。東京新聞もコラムでこの企画を取り上げている(五月十八日)。 こうした現象は、文芸系の同人誌即売会「文学フリマ」(通称「文フリ」)の盛況とも相関的である。文フリはこの数年客数を伸ばし続けており、今回はとうとう一万人を超えた(「文フリ東京」第三六回、五月二一日)。出版不況で本の売れない時代に同人即売会が好調を飛ばすというのは皮肉なことだ。しかしこの状況は意外ではない。大塚英志はゼロ年代初頭、文学がもはや出版社にとっての「不良債権」と化している状況を指摘し、文学は大手出版とは別の流通ルートを持つべき、との理念から出発して文フリを構想した。そして二〇〇二年来続いてきた文フリでは、実際、創作系も評論系も、とるにたらない本から商業誌以上のクオリティを発揮するものまで、自由に・玉石混交に売られている。文フリの「メイン」はあくまで創作系だが、批評系の同人誌も活気を見せている。名前が知られている評論系同人誌の多くは、実際のところその辺の文芸雑誌や学術書などより売れているし、経済的にも自立している。中小出版社の批評への進出(ただし今のところ目立つものはWeb記事ばかりだが)、批評同人誌の活躍、こうした一連の現象はいずれも、批評の脱中央集権化、批評のある種の民主化として理解しうるだろう。 私もまた、主催する批評系同人誌『近代体操』で文フリに参加しており、恩恵を被っている。しかし私は他方でこのような「おまつり」には全体としては懐疑的である。批評同人誌がいくら売れようが、文フリの前後で話題になるだけでは意味がない。人文学は瞬発的な影響力と持続的な影響力の双方を持たねばならない。たとえば文フリ参加者のなかには、知り合いの本を買い、その写真をSNSで投稿することを目的化する者も少なくない。そのような軽薄さは糾弾すべきものではないが、警戒すべきものではある。その状況下では、創作であれ批評であれ、もはや「コミュニケーション」の一環として読まれ(あるいは読まれすらせず)消費されているに過ぎないからだ。それはほとんど「オフ会」のようなもの、もっと極端にいえば「ご近所付き合い」のようなものである。そこではメッセージの内容ではなく、誰々がこういう本を書いている(それを私は知っている)というタグ付けとメタ・メッセージのみが流通している。一過性の祝祭のなかで売れた・売れない、ネットで話題になった・ならない、ビュー数が多い・少ないという指標で満足しているかぎり、批評はたんに「ご近所付き合い」に堕してしまう。 また同時に指摘しておかなくてはならないのは、こうした同人誌文化が「文化系」の若者たちのあいだで最低限の「ファッション」のコードとして機能するのは、ほとんど東京のみだということだ。もちろん文フリは東京以外でも開催されているが、文フリ東京の盛況は頭ひとつ抜けている。たまたま今月の『中央公論』は特集「東京再膨張 なぜ地方では生きられないのか」を組んでいるが、そこで何人かの論者が指摘している通り、東京への人口集中はたんに経済的な次元のみではなく、文化や意味の次元における誘惑、言い換えれば「上京」というファンタスムを伴っている。同人誌文化もまた、このような東京の文化状況を条件としてのみ成立する。 だがそもそも、アカデミズムとジャーナリズムのあいだに位置してきた批評は、小林秀雄以来、東浩紀に至るまで、きわめて「東京的」(さらに「東大的」)な文化だった。ここで興味深いのは、西村紗知が人文書院の記事「最底人を生きる――80年代の浅田彰について」(五月二四日)で着目している浅田彰である。八〇年代のニューアカデミズムの盛り上がりは、むろん、YMO的な感性や(「テクノポリス」はあくまで「TOKIO」である)、セゾン・グループ的な戦略と切り離し得ないものだった。しかしその潮流の中心にいた浅田彰は、当時の対談やエッセイで、ある種の「関西的」な感性を重視している(たとえば、とんねるずはむしろ「関西的なもの」として評価される)。そこでは、ルサンチマンの体系から抜け出すある種の過剰さ(「非主流の最底人主義」)が、「関西」の名の下で語られてしまう。浅田はおそらく、「大阪的」な商人根性がもつアナーキーないかがわしさに対し、現代社会の構造的退屈さから「逃走する」一定の魅力を感じていたのだ。 西村が適切に指摘しているように、おそらくその感性は浅田と同じく関西出身の柄谷行人(阪神ファンにして「吉本主義」)と共鳴するものでもあった。もちろん、『批評空間』のタッグにそのような「反東京」的な香りを感知するのは、危険である(だから西村は賢明にも、この点を強調しすぎていない)。言うまでもないが、東京に「関西」や「大阪」の特異性を、その他どこであれ「地方の現実」を対置する素朴さに対しては、細心の注意を払わねばならない。そうした安易な二項対立や当事者主義はむしろ、浅田自身が抜け出そうとしていた「ルサンチマン」に絡めとられるだけである(しかもそうした怨恨は現在、維新の会やら吉本興業やらに格好の餌を提供するだろう)。だがそれでもなお、都市と郊外、中心と周縁、主流(メジャー)と傍流(マイナー)の差異は、いくら画一化が進もうとも――今なお――解消されてはいない。どんな思想も、抽象的に生じ、融通無碍に流通するのではない。批評の脱中央集権化が何よりもまず提起しているのは、この場所論的問題である(それは搾取の構造でもある)。私たちはそうした場所の問題を、ローカリズムもナショナリズムもぬきに、唯物論的なまでの冷徹な目で見通さねばならない。(もりわき・とうせい=京都大学大学院文学研究科・哲学。Twitter:@satodex)