――読者の読書体験を掘り起こす「書き記す」営み――文芸〈6月〉 山﨑修平 九段理江「しをかくうま」、太田靖久「短いトンネルの先に」 五月二一日に催された、東京文学フリマの来場者が一万人を突破した。これは過去最高記録であると、公式アカウントより発信されている。(https://twitter.com/Bunfreeofficial/status/1660194277216100353)二〇二三年五月三一日閲覧。コロナ禍の三年間で溜まりに溜まった文学「欲」の発散といった後押しもあるのだろうが、このことをまずは言祝ぎたい。他方で、出版不況や文学を取り巻く状況に危惧を抱く言説を耳に挟むことが少なくない昨今、如何にしてこのような慶事が齎されたかを分析する必要がある。作り手が読者と交流できる場の必然性を感じるとともに、どこかに作り手と読者は、テクスト上で交歓するわけであるから、生身の人間である作り手が舞台に出ることへの構えのようなものを拵えなくて良いのかとも思ってしまう。とはいえ、評者も過去にブース出店をしたことがあるわけであり、一貫性はないのだけれど。評者の杞憂であるならそれに越したことはないが、書き手の少なからずの人に、作品を評価されたくないという感情が渦巻いているような気がしてならない。つまり作品を極めてパーソナルなもの・属性として捉えている作家が少なくないと感じる。社会で、会社で、家庭で、学校で、散々に評価されているわけだから、せめて好きな文学活動では評価されないでいたいという思いがあるのではないか。作品が作家の所有物であるなら、その作品の読解には作者のみが裁定しうる正解がある。ここに批評は介入できるのか。そう、この評価されたくないという感情は、批評されたくないとも換言されうるのである。自分の心地よいものを書き、心地よい仲間と集い、心地よい評価をされ、心地よく愉しむ。このことに口を挟むことは野暮であるし、その必要性もない。そもそも同人誌というものはそういう趣旨のものである。だが、この心地よいもののみ目にする、触れる、という流れが決定的になったとき、文学は従前の文学を担保しうるのか。目を覆いたくなる惨状を劇物のような言葉によって象った作品を、果たして私たちは文学として受容できるのか。そして少なからずの人が評価されたくないと考える時代に、批評は如何にあるべきか、岐路に立たされていると考える。 九段理江「しをかくうま」(『文學界』)は、抜群に面白い。馬という、古来より人間と近しい存在である生き物を描くことにより浮かび上がるのは、人間の営みであり、つまりは人間そのものの姿かたちである。太文字となり強調された固有名詞を読んでいると、固有名詞というものの持つ言葉の強さを感じないわけにはいかない。固有名詞は、読者の記憶の層に直接アクセスするものであるということを改めて感じた。例えば「野比のび太」という固有名からは、読者の読書体験を幼少時から掘り起こし、今こうして読んでいる「しをかくうま」という作品を読解する上での無数の補助線が引かれてゆく。「エミリーディキンソン」、「エミリイディキンスン」、「エミリディッキンソン」というように、時代や翻訳者によって、固有名詞は揺らいでゆく。いや、本当は揺らいではいない。事物は変わらずに、ただそこにあるだけである。揺らいでいるのは受容する側であって、私たち読者は「Emily Dickinson」という一人の人間を表す邦訳に、わずかな差異を生じさせ、これを感じ取る。この差異によって、たった一人を表している固有名詞であるはずが、まるで数多の星のように散らばってゆく。読者は、自身の記憶という揺るぎない固有名詞である筈の個人的な持ち物が、広く一般的に流通している記憶のように錯覚し、陶然とする。有り体に述べるならば、「書き記す」という行為は、この営みの繰り返しのことであり、このことを改めて感じ取る優れた作品だ。 太田靖久「短いトンネルの先に」(『アンソロジスト』)は掌編。肩の力がいい具合に抜けた軽やかな筆致の中に、言葉や文学を考え続ける批評性が光る。過去から現在へ、現在から過去へ決して焦らず、走らず、ゆっくりと逍遥しながら事物を見つめる主体の観察眼に惹かれる。 『現代詩手帖』は「詩と小説 二刀流の現在」という特集を組んだ。詩の専門誌であり、執筆者も詩人が並んでいるため、「詩と小説」を考えるというよりは、「詩人が考える詩とそれ以外」、といった偏りも感じなくはないが、この特集の中で、小池昌代の「くるくると回っているものたち」は、「詩と小説」に真っ向から対峙した、論考とも批評的エッセイでもあると読んだ。「小説だって一行目を書き起こすときの圧力は相当なものだが、詩を書こうとするとき、詩は詩のためだけに生きよと書き手に命令し、他のものを排除する」という言は、正鵠を射るものである。 他に、江南亜美子による村田沙耶香論「内側から穴をうがつ」(『群像』)は、村田沙耶香の論に留まらず、現代文学批評として軸となる論であった。また、『群像』では、木下龍也による「群像短歌部」が始まったことも書き添える必要がある。(やまざき・しゅうへい=詩人・文芸評論家)