編者から読者へ 菅原則生 / 大和大学政治経済学部教授・哲学/政治思想 週刊読書人2023年6月16日号 吉本隆明 全質疑応答 Ⅰ~Ⅴ 著 者:吉本隆明 出版社:論創社 今年五月に『吉本隆明全質疑応答』五巻が完結した。 この本は他の吉本の主要な本に比べると傍流のような、特異な位相にある。講演の後の気楽な質疑応答だからおまけみたいなものだが、直に聴衆(読者)と接し、直に吉本が体を張って答える生々しさがある。当たり前だが質疑応答の参加者には、吉本を畏敬する読者に限らず、吉本に悪意を持つ党派的な者もいるから、何が飛び出すかわからない。わたしも一九七六年に、党派的に吉本講演会に出かけて行ったことがある。本書でも、聴衆から「不信」を突きつけられ、一触即発の局面がいくつかある。 つまり、吉本は聴衆から「お前は船大工の息子じゃないか。いつのまに壇の上に立って教えを垂れる偉い存在に成り上がったのか」、「お前は何も行動せずに、訳のわからない無用のおしゃべりをしているだけじゃないか」というあからさまな「不信」を突きつけられている。だが、これら聴衆からの「不信」は、吉本が吉本に対して(自分が自分に対して)常にもっていた「不信」だったから、対立にはならないで、吉本の根源で深い「揺れ動き」を生みだしている。吉本は声を振り絞るようにこたえる。「おれは大衆になりたかったけれど、大衆になれなかったのだ」と。吉本の言葉はもう誰にも「通じない」。この「通じない」というのは吉本の「宿命」でもあった。伝えようとすればするほど通じなくなっていく。意思と結果が逆さまになっていく。全編を通してどこを切り取ってもその「宿命」、ひとつの「いたましきこと」に収斂していく。そして、善よりも悪が、「知っている」ことよりも「知っていない」ことが優位だという普遍倫理のようなものが現れる。だからこの『全質疑応答』は、親鸞の『歎異抄』に似ている。 もうひとつ、聴衆から「不信」を突きつけられたとき、吉本の答えに一瞬の「沈黙」があり、この「沈黙」が「云うべきたくさんのことがあるのに沈黙している」という状態であり、吉本の「芸術表現論」の根底にある「自己表出」ということであった。 当初この本は、「主題別」編集の「質疑応答集」全七巻として企画されたものだった。「宗教」「思想」「人間・農業」の三巻が出たあと「文責」の築山登美夫さんが急逝されたので、吉本をかじったことがあり、校正をなりわいとしてきたわたしにその任が回ってきた。二〇一七年のことだ。わたしは「主題別」の編集ということに異論があった。例えば五八年発表の「転向論」は転向を主軸におけば「政治思想」になるが、中野重治の「村の家」を主軸におけば「文学論」になる。採算のことがあるから簡単なことではないが、わたしは「年代順編集の『全質疑応答』として一からやり直すのがいいのではないか」と提案した。築山さんの考えも「年代順」だったと聞いていた。論創社の森下紀夫さんもほぼ同時に同じ考えだったので、話はすぐにまとまった。 それから七年を費やした。(すがわら・のりお=校正者)