本年上半期の論壇時評を振り返りながら 論潮〈7月〉 森脇透青 『群像』の批評特集「「論」の遠近法」(二〇二三年七月号)には、これまでの「論潮」の連載と関連する論考がいくつか掲載されている。まず沢山遼「空間という葛藤」はファーレ立川に設置された岡崎乾二郎の作品撤去騒動をめぐって、岡崎作品を端正に読み解いている。しかし、沢山は砂川闘争からファーレ立川建設にいたる具体的な歴史には触れていないし、沢山の用いる「政治的な力学」や「パブリック」といった概念は本質的に抽象的かつ美学的である。私が本連載二月三日の記事で主張したように、「パブリック・アート」の可能性を論じるためには、むしろ「所有」という概念が引き起こす公共空間の「葛藤」こそを認識しなければならないはずである。 次に、石川義正の大江健三郎論「生殖するアンティゴネー」はヘーゲルを援用しつつ、『水死』における人工妊娠中絶と女性の主体(化)の観点から論じるというハードコアな批評である。この批評全体には触れられないが、末尾で石川は『懐かしい年への手紙』以降の大江における自己喪失と自己構成の循環を「悪循環」として、また「自然疎外にもとづく人倫的実体への想像的な回帰」と診断し、そこに(ラカンのいう)「現実界」が欠けていることを指摘している。石川の批評は、柄谷行人の『終焉をめぐって』における後期大江に対する批判的言及とも重なるだろう。私は本連載五月一二日の記事で大江の「自己言及」をむしろ擁護したが、『ユリイカ』七月臨時増刊号の決定的な大江特集もあわせて、この問題について再考する必要がある。 最後に福尾匠の新連載「言葉と物」は、柄谷と東を軸に「郵便的なもの」の今日的なアポリアを炙り出し、別様のコミュニケーション論(別様の「批評」)を編み出そうとするものである。これは「批評」の営為にこだわってきたこの「論潮」の記事全体と比較可能な内容を含んでいる。ただし、私には福尾がアイロニカルに記述する「置き配的なもの」が——現状批判としては理解できても——柄谷の「交通」や東の「郵便」などの隠喩とどのように照応しあうのか明確には理解しえず、言葉上で(あるいはエピソード上で)うわ滑っているようにも見えた。「ジャンルレス」な自由としての批評、という福尾の理念に心から同意しつつ、この点は今後の連載に期待したい。 このように論壇時評も半年続けていると色々な関係性が浮上してくるものだ。他方、『群像』の特集でもっとも新鮮だったのは、河南瑠莉「見えない存在になること」だった。河南は、自身の音楽体験から分析して、その体験が背景にある政治的・イデオロギー的文脈を削ぎ落として成立していることを発見し、「対象それ自身ではなく、その美学的な表象に執心する」ことは正当化されうるのか、という問いを提起している。鑑賞体験はしばしば、政治的・社会的な関心を一旦停止し、「内容」を括弧入れすることで可能になる。極端に言えば、別に右翼でなくても、純粋に「形式的」なものとして君が代を聴き、「消費」することができるように。 河南によれば、このような「無関心」(カント)に対して多くの現代アートは鑑賞体験の政治化を目指しており、具体的には「あるマイノリティ・グループを積極的に可視化する」ことで応じている。だが、この「可視化」の論理を《表象による正義》として批判する評論家ルース・ドゥ=リールを援用することで、、河南は議論をより複雑化させている。《表象による正義》において、「私たち」はマイノリティたちの生を鑑賞し、その生を知り、ときに共感することもできる。しかしそのとき「私たち」は可視化され表象化された、安全な(・・・)「他者」としてそれを見ているに過ぎない。《表象による正義》は、実際には政治的な意識変革や実践を誘引する力に乏しい。ここでは、むしろ可視化されることのない(・・)者、徴をもたない者——典型的にはヘテロ白人男性——こそが、不可視性のなかで安住しているのである。 河南は柄谷に依拠し、このような「可視化」の構造を普遍化された「オリエンタリズム」として批判する。この批評は、安易なお題目として「他者の尊重」、「他者理解」を掲げる現代に対して「反時代的」であろう。たしかに可視化はある属性を持った者の苦しみを社会問題として提起し、公共空間のなかに移行させ、問題を解決に向かわせる力を持つ。だが、「可視化」は、それが表象化でもあるかぎり、払拭しえないパターナルな暴力性をも伴う。むろん河南は表象の制度を全否定しているのではない。河南はルネ・ポレシュの演劇を手立てとして、可視化と不可視化の微妙な動き、「曖昧さのなかで立ち止まる」可能性のなかに、美学の政治化を示唆している。 さて、「可視化」や「理解」こそが問題を解決するという楽観論は、現今の理論と実践の中に蔓延している。たとえば『現代思想』六月号「無知学/アグノトロジーとは何か」は、そのすぐれた範例を提供しているだろう。無知学(アグノトロジー)とは、政治的・社会的・軍事的な「利益」のために科学的研究を遅延・停止あるいはその結果を隠蔽し、大衆を「無知」に陥れようとするメカニズムを研究・批判する学である。その典型例はタバコであり、無知学者たちはタバコ産業が発癌リスクを隠蔽してきた歴史を繰り返し批判する。 一方で無知学は「有徳な無知」という「知らずにいる権利」に通ずる概念をも提示してもいるようだが、その全体として、不可視化された知を批判し、研究を推進し、「可視化」することを是としているようだ。『現代思想』の寄稿者たちも、無知学の啓蒙的側面を単純に肯定する者が多数派である。もちろん、この「可視化」の推進に、全体として異論はない(たとえば子宮がん研究の遅延はあきらかに女性差別と連動しており、その点についての無知学的批判はきわめて正当である)。しかし同時に残念に思うのは、ここで知/無知と呼ばれているものがあまりに単純に見えることだ。 私見では、しかし大衆はたんに何も「知らない」のではない。むしろそこには、科学的にはなんら正当化されないような、何らかの曖昧な「信」――「信仰」のみならず、「信頼」や「信念」などをふくむ――がある。それは実際、科学によって、エヴィデンスによって、啓蒙によって克服できるものだろうか。ひとはときに、自身の知に反して信を優先しさえする。それが盲信や疑似科学や陰謀論の元凶だとしても、知と無知の「曖昧さのなかで立ち止ま」っているこの厄介な信の分析(星占いを論じた石井ゆかりを除いて、『現代思想』の寄稿者たちは誰も触れていない)こそが、真に(無)知の力学を「知る」ための契機ではないだろうか。 私は無知学を知らないので、この問いはお門違いのものかもしれない。だから私はいまのところ残念ながら、きっと信の無知学的研究はすでに進められている、と信じる(・・・)ほかはない。それにしても無知学者は誰もタバコを吸わないのだろうか。(もりわき・とうせい=京都大学大学院文学研究科・哲学。Twitter:@satodex)