――名づけ得ない「人々」、臭いと生活の音、素材のままの言葉――文芸〈7月〉 山﨑修平 小林エリカ「風船爆弾フォリーズ」、足立陽「プロミネンス☆ナウ!」」 小説を読む、ことが贅沢なものとして、そして書くということにいたっては、特権的なものになりつつあるのではないか。いや、実際は、これまでも変わらずにそうであったのだろう。それを承知の上で、なお評者が考えているのは、ある種の社会階層への認識が自明のまま、固定化され、再生産されてゆくことへの、抗いも諦念もないまま、流されてしまっていることへの、危機感である。このことは、書き手は誰に向かって、何に向かって言葉を紡ぐべきなのかという問題にも通じる。かけがえのないたった一人の「私」の問題として、言葉は奉仕され、言葉は回収されてしまっている気がしてならない。小説をはじめとした文学を書くということは、(自身という他者を含めて)他者を描くことであって、言葉では容易に表し得ない、雑多な、混沌とした、説明しきれないものを、それでも言葉を用いるしかなく、表した営為の結晶だと評者は信じている。だが、肝心の他者の姿が希薄になっていると感じる。あるいは、雑多であり、混沌したものを無くすべく浄化されてきているとも換言できる。解りやすく、はっきりとした自意識によって構築された世界には、他者の存在はノイズでしかないのかもしれない。さながら雪山にて体力を温存するためにビバークするような、他者という雪をやり過ごす無反応かつ無関心の荒野がある。「私」があり、「他」が希薄な時代に文学は如何にあるべきか。 その答えの一つを、過去と今とを往還する作品にあるのではないかと考えている。更には、ここには、未来への提言も含まれている。「私」を解体し、「私」を問い直すことが出来るのは、「私」しかおらず、有限の生という、あまねく我々に決定づけられている運命に、自身を問いかけるのは、古今東西の優れた文学作品に見られるものだ。 小林エリカ「風船爆弾フォリーズ」(『文學界』)は、「短期集中連載」。東京の過去を描くことで、炙り出されてゆくのは東京の今であり、未来である。洒落た街に、豪華絢爛な建物があり、人々は上気している。この名づけ得ない「人々」を、想像して感じ取ることができる点が、何より本作の優れている点の一つだ。それにしても、本文に言及されている「公立なら受験に強い進学有名校」とされている「誠之小、番町小、青南小なんかへ子どもを行かせたがる」というのが、今も昔も変わらないことに複雑な感情を抱いた。評者の年齢(一九八四年生まれ)ですら、引用した小学校の学区へ孟母三遷よろしく、引っ越すというのを耳にしたことがある。社会的階層が、土地に固定化し、再生産されてゆく。本作のようにルサンチマンでも羨望でもない、フラットな視点で東京のエスタブリッシュメントを描く優れた作品は少ない。連載完結を心待ちにしたい。 足立陽「プロミネンス☆ナウ!」(『すばる』)における、生活の音に注目した。街に溢れる音のほとんどは、自らに関係なく、ただそこにあるがままにして流れている。この生活の音を聴き、書き取ることによって、音に関係性が付与されて、小説の血肉となってゆく。関西方言と思われる言葉の数々は、キャラクター付けといった表層的な特徴ではなく、生の声として読者を巻き込み引き込んでゆく。あるいはこのような口語表現によって象られた本作は、リズムが良いとも述べることができるだろう。全体を通底する感情の溢れんばかりの流れをどのように捉えるかによって、評価は分かれるだろう。会話文にも、地の文にも、生活そのもの、野趣溢れる、体臭のような臭いが付き纏う。評者は、この臭いと生活の音が混在した本作は、然るべき評価がなされるべきだと考える。 長井短「私は元気がありません」(『小説トリッパー』)は、今月最も気になった作品でありながら、適切に批評する言葉を探しあぐねたまま、月日ばかりが経ってしまった。作者が、あるいは作品が意図しているかは知り得ないが、突然、放り出される詩の原型のような言葉に惹かれる。例えるならば、具材をカットすることなくそのまま鍋に放り込んだカレーのような、本来なら適切に下処理をするべきで、食べやすい(つまりは読みやすい)形にするべきでもあるのに、何故かこのようなゴロっとした素材のままの言葉に惹かれてしまう。「私たち三班は意気揚々とパークに向かったのに、待っていたのはパイナップル畑を走るただの車だった。子供じゃないんだし、別にそれでふて腐れはしないけど、がっかりしたのは本当で、そもそもパイナップルってそんなに食べるもんじゃない」という文の、溢れんばかりの詩情は一体どうしたことだろう。パイナップルの甘さが口中に満たされてしまうようなこの文に、何故こうも惹かれるのだろう。この読点の打ち方や語句の選択は、どれか一つを変えてしまうと喪われるギリギリのバランスで成立している。この危うさの魅力は、気負わず無防備のまま真っ直ぐに言葉を差し出している良さに満ちていると考える。(やまざき・しゅうへい=詩人・文芸評論家)