――『絓秀実コレクション』全二巻に思うこと―― 論潮〈8月〉 森脇透青 『絓秀実コレクション』全二巻(blueprint)が刊行された。一般的に絓秀実は、七〇年代末に文芸批評から出発し、ゼロ年代には『革命的な、あまりに革命的な』(通称『革あ革』、作品社、二〇〇三年および「増補版」ちくま学芸文庫、二〇一八年)および『1968年』(ちくま新書、二〇〇六年)のような画期的な六八年論を記した批評家として知られている。七〇年代以来絓が書き散らしてきた文章群を集めたこのコレクションは、今では手に入りづらい初期の文芸評論をふくめて、多くの先鋭的なテクストが収められている。 強調したいのは、このコレクションがきわめて卓越した「時評家」としての絓秀実を知らせるドキュメントとなっている点である。今日にいたるまで——『ユリイカ』の大江健三郎特集(二〇二三年七月号)に寄稿された文章もそれに含めてよいように思う——絓秀実はすぐれて時事的な批評の書き手であり続けている。とりわけ『革あ革』のような硬質な著作から絓批評に入門した最近の読者にとっては、たとえば『世紀末レッスン』(パロル舎、一九八七年)に収められていたような、一見するところただの「雑文」(「雑」は「美学」に抵抗する絓批評のキーワードである)にしか見えない風俗評論には驚かされるかもしれない。ここで絓は当時のテレビタレント、プロレス、野球、ジャンクフード(チューハイやラーメンやホカ弁)、ラブホテルのネオン、街路のキャッチにいたるまで論じている(『コレクション2』に所収)。だが、もちろんここにおいても革命的批評家は健在であり、絓はそうした「風俗」を階級問題や戦後民主主義の欺瞞としてなかば強引に、それでいてユーモラスに論じ切るのである。 こうした文章にはたしかに八〇年代日本の高度経済成長期的雰囲気が全面に感じられるのだが、絓の風俗評論には、ニューアカデミズムの「テクノ・ポリス」的栄光よりも、むしろある種の「路地裏」のような「いかがわしい」ムードが漂っている。これを読んだ読者は次に、『革あ革』にもまた、そうした「路地裏」的感覚が独特のユーモアを通じて散りばめられていることに気づくだろう——六八年とは、まさに「いかがわしい」者たちの祝祭だった。絓の文章はもっともシリアスな地点においても、そのような「反美学」的感性において読まれねばならない。 絓の文章においては、その時代ごとの最新鋭の文芸理論、近代日本文学との絶えざる格闘、六八年を経由した「革命」への志向、独特の悪意に満ちたユーモアが絶えず入り混じっている(そうした絓批評の生成過程を、『コレクション1』の初期評論は伝えている)。絓の批評文の独特さを支えているのは、こうしたさまざまな位相間の「ギャップ」の生々しい露呈である。とりわけ綿野恵太(『コレクション2』にも寄稿している)は、絓批評のアイロニカルな一面を重視・継承する批評家として今着目されるべきだろう。綿野は六月に『「逆張り」の研究』(筑摩書房)を刊行し話題を呼んだが、とはいえ、絓の突き放したような「ギャグセンス」を、あるいはあの「ギャップ」体験を綿野の批評が継承しえているか、私は判断しかねている。絓的なアイロニー/ユーモアを現代に実践した場合、それはいかなる「批評的」効果を持ちうる(あるいは、持ちえない)のだろうか。こうした判断を下すためにも、まずは『コレクション』を読まねばなるまい。 他方で惜しまれるのは、「雑」という絓批評のキーコンセプトを全面に展開しえた『小説的強度』(福武書店、一九九〇年)のような記念碑的著作が、いまだ入手困難なことである。『コレクション』全体から奇妙にも(?)論考が欠落している『小説的強度』は、「文学」と「革命」がいかにして結びつきうるかを(ヘーゲル『美学』の枠組みを「脱構築」することを通じて)スリリングに示した理論的達成のひとつであり、なんらかの形での再版が望まれる。なお、難解なことで知られるこの著作については最近、ヒップホップの批評家にして黒人運動史に精通した論者である韻踏み夫によって丹念な註解が書かれた。読者はまずそこから読みはじめるのが最善である(「「外」へと向かい自壊する不可能な運動──絓秀実『小説的強度』を読む」、人文書院Note、六月二一日)。 以前にも紹介したこの人文書院の企画では、絓批評の薫陶を受けた書き手が多く寄稿している。『コレクション1』に「失敗した「偽史」に寄せて」を寄稿した住本麻子もまたそのひとりであり、住本はこのNote企画に斎藤美奈子論を掲載している(「紅一点の女装——斎藤美奈子紹介」人文書院Note、七月二六日)。ここで興味深いのは、『コレクション2』の「あとがき」で――論点はやや異なるものの――絓自身が斎藤に対する批判的なコメントを寄せていることである。住本のふたつの文章を通じて、独特の三角形(絓―住本―斎藤)が同時期的に浮かび上がっているとするならば、住本がこの問題――六八年以後の批評とフェミニズムをめぐる摩擦(と、ともすれば共闘可能性)――を今後どのように扱うのか、期待したい。 このように「革命の批評」あるいは「批評の革命」とでも言うべき絓のスタイルは、現在、多くの「若手」にとって大きな参照点となっている。最後に私見を述べておけば、絓の批評のなかでも今後さらに読まれるべきは、絓が筒井康隆の断筆騒動について批判的に考察した『「超」言葉狩り宣言』(太田出版、一九九四年)だと思われる。このテクストは近年やたらと議論されている「表現の自由」問題に関する批評的応答としてはほぼ最良のものであり、ある意味絓の著作で最も「アクチュアル」である。しかし、この書のハイライトは絓自身の文章以上に金靜美との対話であって、これはいまのところ『「超」言葉狩り宣言』そのものを手に入れなければ読むことができない。この対話のなかには、「表現」と「差別」の問題を考えるあらゆる者にとって出発点となるべき発言が数多く見られるだろう。 以上のように絓批評の現在に至る影響力を記してきた。私はといえば、この著作を研究費で(つまり税金から捻出される金で)買うという反革命的「冒涜」を冒してしまったことをここに告白しておく。その納品書を出力する際、「絓」という漢字が学内のシステムでは表記できず(実際ネット上でもしばしば「〓秀実」などと表記されている)、生協書店のレジで少しの時間足止めを食らってしまった。『コレクション2』に寄せられた綿野の文章(「厚揚げは貧民のステーキ」)が触れているように、「絓」というペンネームは「蚕が繭をつくるときの粗末なくず糸」に由来するらしいが、このレジ前で待ちぼうける時間ほどにその由来を強く意識したことはない。「絓」という「くず」は、国家と資本の結託する現代社会で、スムーズな「変換」/「交換」を妨害するひとつの文字化け=ノイズとして機能し続けているのである。(もりわき・とうせい=京都大学大学院文学研究科・哲学。Twitter:@satodex)