――「批評」と「クリティーク」の差異―― 論潮〈9月〉 森脇透青 先月刊行された表象文化論学会編『表象』十七号(月曜社)は特集のひとつに「表象文化論の批評性」を掲げている。その特集内に組み込まれた石岡良治・入江哲郎・清水知子・橋本一径による対談は七〇年代以降の「批評的」知の変遷と現在について——つまり現在、世界的に言われている「批評の終焉」「ポスト・クリティーク」といったお題目について——具体的に知るための良い足がかりになる。 おそらくここで彼らがいう「批評=批判」とは、カントやマルクスに由来する「批判哲学」や「批評理論」の系譜を引き継ぐ、「フーコー・ドゥルーズ・デリダ」以来の七〇年代以降の左派系人文学一般を指すものである。その証拠に、日本の「批評家」は柄谷行人や(「表象文化論」の生みの親のひとりである)蓮實重彥くらいしか登場しない。しかも蓮實は『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』の著者つまりポスト・モダン思想の輸入者として理解され、柄谷は世界的に評価された「哲学者」として、いわば逆輸入的に理解されている。 このような意味での「批評性」はたしかに「世界的」に通用するのかもしれない。つまりこの対談を読むことでわかる「批評」あるいは「批判」とは、カント、マルクス、フーコーといった名前を通じて現代にまで引き継がれているある種のグローバルな人文学――おそらく中立的に表現するなら、いっそ「カルチュラル・スタディーズ」と呼ぶ方が通りがいいはずだ――である。彼らが名前を出すのは大半が欧米圏の研究者たちであり、付録のブック・リストもすべて英米仏の論者のテクストで埋められている。私が気になるのは、小林秀雄以来(とさしあたりは言っておく)、日本語で「ヒヒョー」と間抜けに発音されてきた言葉が、ここで言われている「批評性」とどう関係しているのだろうか、ということだ。 柄谷の名前が明示的に登場するにも関わらず、その柄谷が属していると言われる「日本の批評の伝統」(石岡)については、この対談では問わずに通り抜けられる自明の前提かのように機能している。だが、そもそもその成立の歴史から言って、「表象文化論」という制度の「批評性」は、この――入江の言う「マッチョで画一的な」(?)――「伝統」と無関係ではない。この点が問われず自明視されているがゆえに、そもそもなぜ彼らが「表象文化論の批評性」について語らなければならないのか、それ自体が読者には理解不能である(表象文化論学会の会員には伝わるのかもしれないが)。 私はこの論点を強調することで、日本のドメスティックな問題を過剰に重要視しようとしているのではない。古典的な文芸批評に先祖返りすべきだと言いたいわけでもない。私がここで問いたいのは、「批評」とcritiqueあるいはcriticismという語の翻訳的関係である。「ポスト・クリティーク」という語で何かを嘆くひとを見るたび何か胡散臭くを感じるのは、そこで「クリティーク」と言われているものが何なのかまだ私にはよくわかっていないからだ。いま、「批評」という語は、互いに全く異なる営為を、何かあいまいな普遍性のもとに翻訳させ妥協させるジャーゴンと化していないだろうか。ベンヤミンやデリダがいうように、そのような「翻訳」の抑圧的な効果にこそ抵抗しなければならない。 そもそもかつての日本の批評家たちは、この「批評」という語と「クリティーク」という語の差異に敏感だったように思われる。柄谷行人は八〇年代にそのような差異をしばしば力説していた(「批評とポスト・モダン」)。むろんそれは日本ローカルな「批評」の文脈を主張し閉塞するためではなく、むしろその差異から出発してこそ「批評」と「批判Kritik」を接合するためである。たとえば柄谷が『日本近代文学の起源』という著作を書いたのは、ローカルな文学史を叙述することを通じてむしろそれを「世界史」に開くためだった。『表象』十七号の巻頭言で門林岳史は、「ローカルな認識から出発しつつ、それをたえず吟味し続けること」の重要さを説いているが、こうした「ローカル」から「世界」へ開く「批評」の身振りを、「表象文化論の批評性」の座談会の視座から捉えることができるだろうか。 おそらく私が一番戸惑いを覚えているのは、彼らが一体どこから話しているのかわからないという点である。彼らの言葉はたしかに知見に富むが、しかし中立的で無徴的で、全体を俯瞰しつつみずからは消え去るかのような、そのような透明な言葉に見える。だが、私はその無自覚な透明さによって、彼らの言葉がかえってローカルに閉じているという感覚が拭えない。ここで様々に紹介されている文献の全てを「批評」と呼称して繫ぎ合わせることができるのは、実際のところ、「表象文化論」という「ローカル」な「制度」の内部だけなのではないか? いずれにせよ、対談のなかで触れられている「制度の批評」ならぬ「批評の制度」を問い直す試み(ヒト・シュタイエル)が始まるとしたら、まずこうした認識からだろう。何かが終わったとして、はたして何が終わったのか。私たちは、単数形のもとにあいまいに了解された「批評」ではなく、複数形の「批評」に敏感でなければならない。 〔追記〕 『週刊読書人』二〇二三年八月一八日号の一・二面を飾る特集「田中秀臣×栗原裕一郎トークイベント 〈不寛容な時代に抗う言論は〉」には問題がある。この対談で、彼らは業界内で誰が誰を追い出したかという醜聞の拡散と陰謀論じみたレッテル貼りに終始し、個々の問題にはほとんど立ち入らず、「科学的事実」や「普通の人」という抽象的で凡庸な審級あるいは「紋切り型」に訴えかけることで業界への呪詛を並べている。そこには思想も文体も具体的な読解もない。立場もない。たとえば栗原は一見、ジェンダー系の論者に対してラディカルフェミニストと共闘するかのような口ぶりだが、それは敵(「TRA」)憎しでそのように見せているだけである。そのような癒着に強度はなく、ただ漠然とした「業界」への反動感情があるだけだ。そして彼らは「不寛容な時代」に抗ってすらいない。彼らはこの現象をただ業界の残念な体質としてしか考えられないからだ。(彼らのいう)「不寛容な時代」について、彼らには大局的な分析をなす能力も視座もない。それを変革する実践力もない。 この対談の全容は「完全版」(五〇〇円)のPDFを買わなければ読めないようになっている。『読書人』自体が値上げで五〇〇円近くするというのに、ひとは合計で千円出してこの対談を読むのだろうか。むろん私は買わない。『読書人』編集部は、この程度の特集が呼ぶ「話題」や「論争」で何か変わるとでも考えているのか。経営が苦しいのか特集のネタ切れなのか単純に倫理観が欠如しているのか知らないが、それならいっそこんな黴臭い論壇時評の枠など無くして、その辺のくだらない論壇誌と同様に炎上スキャンダルで紙面を埋めてしまえばいい。むろん私は買わない。(もりわき・とうせい=京都大学大学院文学研究科・哲学。Twitter:@satodex)