――不必要で非経済的な、淡々と変わらぬ日常を過ごすという「抵抗」――文芸〈9月〉 山﨑修平 天埜裕文「糸杉」、平沢逸「その音は泡の音」、筒井康隆「山号寺号」 今月は、まずなにより『新潮』の「テロと戦時下の2022―2023日記リレー」に注目した。「永久保存版」と謳う通り、今ここでしか体験(遭遇か)できない迫力が、特集に込められていた。寄稿している個々の作家による「日記」は、もとより文体も、問題意識も、異なる。だが、それゆえに、炙り出されるのは日常の香り、色彩を纏わせる確かな足取りであり、(私の認識では)戦時下である今の日本において、文学上の営みにおいては豊かなバリエーションをもつ日常を、どうにか表出することが可能であることの証左でもあると述べることができる。とはいえ、この括弧付きの「日常」から目を離し街に繰り出せば、右に倣えと言わんばかりの全体主義・画一的なものに染め上げんとする非日常たる日常が、まさしく戦時下のそれが、ひたひたと身に迫っている。対岸の火事のような他人事ではない。或いはここで文学の役割とは何かを考え、提示することが求められているのだろうか。いや、評者は寧ろ、曖昧模糊とした判然としない、不安定でややもすると不必要な、効率の悪い、非経済的な何かをもってして、敢えて掲げることなどせずに、淡々と変わらぬ日常を過ごすという「抵抗」が必要なのではないかと考える。これこそ「戦時下」において最も忌み嫌われるものであるからだ。逆説的に強いて述べるならば、これをもって文学であると信じたい。 天埜裕文「糸杉」(『すばる』)の、思索の道を幾度も往還するような文体に惹かれる。小説という形態である以上、出来事が起き、それを受けて思考することによって、物語が推移してゆくわけだが、本作では、逆のプロセスのように錯覚する。すなわち、まずは思考することによって出来事を引きよせてゆくように思えてくる。物語は直線的に進まず、ときに迂遠で、ときに停滞するが、不思議と読み終えると、一つの線に貫かれたものが確かにあり、寧ろくきやかな印象すら残す。思考することによって選ばれた選択が、つまり自問自答することによって直面した疑念が、徐々に開かれてゆくときの快感がこの作品にはある。ここに良さがあると考える。極めて人間的な営為が描かれていると考える。 平沢逸「その音は泡の音」(『群像』)においても、思考の道を辿れるのだが、よりポップで、より日常に立脚した視点は、何かに対して行動を起こすときのプロセスという恣意的な要素を極力薄めている。つまり、出来事によって齎されるものが、(想定し得ないものが想定される小説という箱の奇妙さを味わいながら)次々と押し寄せてくる。ストーリーテラーが確実に空間を支配し、差配しているのだ。このことによって、読者はリズム良く作品世界に没入することができる。本作の良さは他に幾つもある。心情描写の鮮やかな切り口や、先述したリズムもそうではあるが、実はさりげなく混ぜてあると思われるコラージュやパスティーシュに思わず頬が緩んでしまう。これは決して分かる人には分かるという内輪向けの閉ざされたものとして評価するものではない。寧ろ、この閉ざされたものにこそ、本作に描かれているコミュニティに内在する、コミュニケーションの形態の表し方として抜群なのではないかと考える。この奇妙な説得力のある落ち着かない言葉が要所を引き締めている。 筒井康隆「山号寺号」(『文學界』)を読み、日本語の愉悦を改めて考えるに至った。小説(あるいは散文)と、詩や韻文、ラップ、ヒップホップなどと私たちはジャンルを分けて、あたかもそのジャンルごとに専売特許を付したように、批評すらも区分けしてしまいがちだが、言うまでもなく、日本語で創作された文であるという共通項から目を離してはならない。リズムはもとより、日本語の音の心地よさ、発音したときのえも言われぬ悦楽は、豊穣な語彙の組み合わせによって得られるものでしかない。言葉本来の持つもの、日本語による表現とは何かに言及していない議論や批評を目にするたびに、果たしてこの視点から小説と詩の越境、あるいは詩の独自性云々などと言えば言うほど、言葉から乖離してゆくような気がしてならない。本作のように、日本語によって創り出された愉悦を味わう心地よい作品というものが、もっと溢れるべきであると考える。 今月は、他に取り上げるべき作品に巡り会えなかった。このことは取り上げられなかった作品が優れていないということにはならない。あらすじを示し、作品を解剖し、一つ一つつまびらかに紹介することが、評者は批評になるとは考えていないためである。より作品を豊かに読むことができる補助線を引き、作品の良さというものを少しでも示すことができることを望んでいるし、このためには、謎に満ちた作品から、謎を少しでも解けるようにしたいと考える。あるいは、「書く」ことと「書かれる/書かれた」あわいにあるものを、考えている。このあわいにあるものの不安定で不明瞭なものを、評価するべく批評してゆきたい。(やまざき・しゅうへい=詩人・文芸評論家)