――表現の「ポピュリズム」を考える―― 論潮〈10月〉 森脇透青 この九月から堀之内出版のNoteで新連載「いま、何も言わずにおくために」を開始した。ここで私は現代におけるフィクションの状況を問題にしている。私が第一回の論考「意味の考古学」(堀之内出版ブログ、9月15日)で主張しているのは、現代においてひとはそもそも「何かを言う」ために作品を見ているということだ。消費者たち・鑑賞者たちの目的はたんに観たり聴いたりすることではない。現代における消費行動の核心は、消費者が「作品」をみずから語ることである。「批評の民営化」が進み、誰でも何でも批評できるようになった社会においてひとが消費しているのは、対象ではなく自身の消費行動そのものである。 誰もが知っているように、現代において「作品」の価値は、語られた量と速度で測られている。宮崎駿の新作だろうが、村上春樹の新作だろうが、話題の美術展だろうが、とにかく数を動員し話題になるのならなんでも同じことだ。話題が終われば作品も終わる。私が目指しているのは、このような資本―制作―消費の構造を「脱構築」し、作品、解釈、意味の関係性を新たに建て直す批評である。 さて、ここでわざわざ私の連載の話をしたのは、上記のような認識が一定以上一般的な事柄だと思われるからだ。今月読んだ論考で印象的だったのは、梅津庸一のデヴィッド・ホックニー展へのレビュー「ホックニーとポピュリズム」である(TOKYO ART BEAT、9月26日)。このWeb記事で梅津はホックニーの作品に内在する「ポピュリズム」的傾向を描き出している。重要なのは、梅津がこの批評を現在の美術メディア環境そのものにまで拡張して論じていることである。ここで梅津が描き出している状況について、私は一定の問題意識を共有している。「〔展覧会で〕わたしたちは「素晴らしかった」と満足して、また次の大型展の動員として駆り出される。そんなことを繰り返していてわたしたちの「美術」の営みはいったいどこに蓄積され得るのだろうか」。 さて、ホックニーの作品の特徴が(かなり極端に言って)誰でも描けそうな絵を描くという「日曜画家的」で「世俗的」(梅津の表現)なところにあるとすれば、この性質は、鑑賞者への参与を喚起するものでもあるように思われる。梅津のいう「ポピュリズム」的状況は、誰でも作品を描いてよいのだ、(ホックニーのように)iPadで絵を描いてもいいのだという「参入障壁」の解除へと向かう。この事情が美術にかぎらずきわめて一般的に起こっていることは、『文學界』九月号の特集「エッセイが読みたい」を一読すればわかる。この特集では「文学フリマでエッセイを買う!」と題された小特集まで設けられており、ここではエッセイ系のZINEや同人誌も含めて論じられている(文学フリマについて、私は『読書人』六月九日の「論潮」で論じている)。 誰もが批評する時代は、誰もが表現を「試みている(エッセイ)」時代でもある。軽く私的なエピソードを手軽に「自己表現」(きわめて古びた概念だ)して共感したりしなかったりすることが、いま創作の現場をかなりの割合で占めている――個々の評価は別として――と私は思う。さまざまな大学の芸術学部や創作コースの広告には、高確率で「あなただけの表現」を言祝ぐ文言が並べられている。いまや誰でもYouTuberのように「好きなことで生きていく」ことができるかもしれない。なんらかの「表現者」あるいは「インフルエンサー」になりたい(ワナビー)という欲望は、いまそれ自体がすぐれて「商品」として流通している。就活ビジネスにも似たそれをワナビー資本主義とでも呼んでおこうか? 私は一部の作家や批評家や業界誌が発言と表現の権利を独占していた時代に戻るべきだとは思っていない。だからこのような芸術と批評のエッセイ化(=ポピュリズム)を一面的に批判しうるとも思わない(私だって同人誌くらい出している)。だが、かといって私は「表現」が無条件に尊いものだなどとまったく思わないし、みなが誰でも内面を「自己表現」しうる「一億総活躍社会」的状況を「自由」とみなせるほどにはリベラルあるいはネオリベラルではない。『情況』二〇二三年夏号は特集「音楽」を組んでおり多少の話題を呼んだが、ここで批評家の韻踏み夫がヒップホップについて書いている事柄(「ヒップホップ的「リアル」は、「私小説」的内面性に奉仕するのではまったくなく、日常生活批判というポスト六八年的パースペクティヴにおいて考えられなくてはならない」)に私は基本的に同意する。 ところで『情況』の特集自体は面白くないが、興味深いのは、巻頭言(塩野谷恭輔・中村眞大による)での指摘である。(「サイレントマジョリティー」や「可愛くてごめん」を社会批判として聴いているらしい中村のセンスには心底うんざりするが、さておき、)彼らは「政治に音楽を持ち込むな」というクリシェに対する対抗手段として、「音楽の政治」化はもはや無効であると診断する。これは広く言って「美学の政治化」(ベンヤミン)に対し、むしろ「政治の美学化」――ベンヤミンによればファシズムの特色――を徹底して推し進め、さらには「政治の廃止」というユートピアを目指そうとする方向性だと言うことができる。 私は基本的に「美学の政治化」側だが、既視感には同意する。「美学の政治化」を掲げる現代の作品や批評は、「政治的だと思われていないものを政治的イデオロギーとして考察する」手つきに慣れきっており、その意味ではもうひとつの「クリシェ」だろう(実際、そのほとんどはお勉強の結果を羅列した――いやむしろ勉強不足な――説教でしかない)。しかし、そこで次に私たちが考えるべきはむしろ、新たな「政治」の概念ではないだろうか。 政治思想は新たな「政治性」の概念を定義し創造するためにある。その提起は『情況』には見られない。ここで志向されているのは実際には新たな音楽でも政治でもなく、むしろ政治と実存が「自己表現」として否応なく結びついたかつてのプロテストソング、つまりは政治化するまでもなく元から政治的な音楽である。若手のミュージシャンがいくら紹介されていようが、その古臭さは変わらない。それが絶対的に「古い」のは、世代の問題ではなく、まさに「自己表現」というあの古びた反動的概念(実際には現代の「ワナビー資本主義」と癒着した概念)に回帰しようとする心性のゆえである。新たな音楽なり新たな政治なりが開ける可能性はむしろ、まさにこのようなノスタルジーを自覚的に批評するところから模索されるべきではないか。この昭和臭い巻頭言に比べれば、『情況』企画記事「心燃える戦いの音楽80選」に寄稿している笠井潔の短評にはまだしも好感を持てるというものだ。笠井はきっぱりと書いている、「「戦意高揚の音楽」という発想は、二一世紀の大衆蜂起には似合わない」と。(もりわき・とうせい=京都大学大学院文学研究科・哲学。Twitter:@satodex)