――優れた小説は、優れた批評になりうる――文芸〈10月〉 山﨑修平 舞城王太郎「デニムハンター」、蓬莱竜太「きのう下田のハーバーライトで」 毎月こうして「文芸時評」というかたちと向き合って、文芸誌に書かれた莫大な文字を読み続けていると、今日の日本語で書かれた文芸作品の、特に小説が示すものの多彩さに驚く。或いは、これは多彩という表現をするより、枠に留まらず動物のように蠢いているものが小説であると言った方が近いのかもしれない。評者は、評者なりの小説観・文学観のようなものを持ち、それを軸として毎月「文芸時評」を書こうと試みている。しかしながら、実際のところは、常にこの小説観の軸を揺らされ、試され、問われている作品と出会うし、また、このような作品にこそ惹かれる。 何を書くかではなく、どのように書くか。仰々しく言えば、言葉の運用方法について、どのように提示されているのか。これを紐解き、批評することを主眼としてきた。その点に於いて、例えば舞城王太郎の作品は、新作が発表されるたびに注目している。 舞城王太郎「デニムハンター」(『群像』)は、New Manualとのコラボレーション。「文×論×服、のクロスオーバーによる新たな可能性を模索する」と紹介にはある。テンポの良い会話文、物語上の主体の気づきが読者を引き込んでゆく構成。振り落とされる寸前の心地よさが、刺激的に展開される。このような優れたテクストは、テクストのみで作品として屹立しているにも拘らず、コラボレーションすることにより、変化がもたらされている。無論、印字されたテクストは、テクストのまま変わらずに眼前にあるわけである。つまり、この変化は、読者の内的な動きの結果であるだろう。わたしたちは、優れた作品と出会い、これを他者に伝達するとき、「面白い」と言葉を発する。この「面白い」は、それこそ人によって示すものは様々であるだろう。それでも、読者である自分自身を揺らし、変化をもたらすものを、「面白い」としていることは否めないと考える。つまり、「面白い」ものがどのように「面白い」ものであるかを伝えることこそ、批評の根幹ではないかと、評者は改めて考えを巡らしている。そして、このような気づきをもたらした本作こそ、優れた小説は、優れた批評になりうる、という評者の持論に図らずもそったものである。決して真新しい何かを追い求めているのではなく、淡々と流れてゆく文体と、コラボレーションによる異分子の衝突に、文学の新たな一つの可能性が示唆されている。 「文芸時評」では、小説以外の作品も積極的に取り上げるようにしている。この理由は、評者が詩人という一つの専門性を有しているからだけではない。例えば、詩人の井戸川射子や、最果タヒが小説を発表しているように、小説として提示されている作品を読み解くとき、作者のバックボーンが小説以外にあるということが、顕著だからである。できる限り、バックボーン、つまりは源泉にある部分を読み解いてゆきたいと考えている。文芸誌を繙くと、作者紹介欄の肩書きに、詩人、歌人、俳人が並ぶのを見ないことは決してない。これまで詩歌は、他ジャンルと言われ、はたまた小説を書くことは、越境であるという言説がなされてきたように感じる。このことはつまり、小説というジャンルが揺るがない定義によって成されているような誤解を生んでいたのではなかっただろうか。本当にこれは越境なのか? 本当に他ジャンルという表現が適切なのか? 評者は、小説というものの定義が揺るがないものではないと考える。冒頭で述べたように、定義が揺らされ、試されているものこそ、小説を優れた小説たらしめていると考える。換言するならば、小説でありながら、小説を問うている作品である。先述した舞城王太郎の作品も同様である。 ということを考えていると、昨今の小説を取り巻く世界(空間か)は、小説という枠(定義)を、そして文学を問う姿勢を打ち出しているように思えてくる。作者のバックボーンに、哲学や言語学、社会学、翻訳……、様々な角度から小説を解体し再構築するようではないだろうか。無論、これまでも小説は様々な人に書かれてきていたが、ここに来て一つの転換点を迎えつつあるように考える。その転換点は、言葉そのものに回帰するということである。 その点に於いて、蓬莱竜太「きのう下田のハーバーライトで」(『すばる』)の戯曲が掲載される意味は大きい。戯曲のテクストに明示された身体行動が、実際に演者によって為されたとき、テクストは解体され、解放される。会話によって制御され進行する時間軸は、現実の時間を、わたしたちが今ここにいるという当然のことわりを改めて思考させる。 ここまで書き進めてきて、もはや詩のような小説、演劇のような小説、音楽のような小説、という批評が成立しなくなっているということを考えている。茫漠とした世界には、ただ言葉によって書かれたものだけがあり、それは読むことによって開かれてゆく。 今月は、他に三木三奈「アイスネルワイゼン」(『文學界』)にも注目した。(やまざき・しゅうへい=詩人・文芸評論家)