対談=魚住昭×中島岳志 『出版と権力』(講談社)刊行を機に 読書人WEB限定 出版と権力 著 者:魚住昭 出版社:講談社 ISBN13:978-4-06-512938-8 講談社。誰もが一度はこの出版社が刊行した書籍・雑誌に触れているだろう。ではこの日本有数の大出版社が創業からどのような歴史を辿って現代に至ったか、その足跡を600頁を超えるボリュームで綴った『出版と権力 講談社と野間家の一一〇年』(講談社)が2月に刊行された。 未公開資料を駆使しながら、4年の歳月を費やして講談社のオーナー一族である野間家の物語を書き記したフリージャーナリストの魚住昭氏と、創業者の野間清治と同時代を生きた岩波茂雄、下中彌三郎、2人の評伝を書いた政治学者、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授の中島岳志氏に対談いただき、日本近代における出版が果たした役割、講談社・岩波書店・平凡社の比較、野間清治の人となり、などを語ってもらった。また本対談の司会を本書編集担当の講談社・横山建城氏にお願いした。(編集部)================================ 大衆とメディアと権力 横山 本日は魚住さんと中島さんに、このたび刊行した『出版と権力』についてお話いただくことになり、たいへん嬉しいかぎりです。本書は魚住さんが4年がかりでお書きになった1冊ですが、中島さんは本書をお読みくださってどのような印象をお持ちになりましたか? 中島 そうですね、本書で魚住さんは講談社と創業家の野間家をモチーフに日本近代史における大衆とメディアと権力の関係を描かれましたが、僕が研究している政治学の領域でも大衆とメディアと権力の関係は常に研究の対象として考察されている題材です。この問題を論じる上でまず思いつくのはユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』(未來社)ですが、この本の中でハーバーマスはヨーロッパにおける市民的な公共圏、つまり権力者に対する批判的なチェック機能の役割を果たした政治的領域の成立過程を論じると同時に、その公共圏が破綻し、構造転換を迎えていることを絶望的に書いています。では公共圏の構造転換とは何か、それは大衆とマスメディアの誕生ですね。それが支配側の巨大権力と一体になり公共圏を形成していた中間領域が消滅する、ということをハーバーマスは見抜きました。 大衆の問題を扱った本ということでいえば他にオルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』(岩波書店)もあります。1930年刊行の本ですが、オルテガは個性を重視しない、人々の均質化を望む大衆社会が必然的に全体主義を生み出すことになる、そういった社会のシステム・メカニズムを批判的に検証しています。この本が出版された数年後にナチス・ドイツが台頭し、あるいはソ連ではスターリンが指導者として君臨する、そういった歴史的事実を的確に予見した書として今でも支持されていますね。 『出版と権力』を読んでいて感じたのは、ハーバーマスやオルテガらが警告してきた大衆、メディア、権力が一体化した世界のあり方にこそ魚住さんの問題意識の中核があるのではないか、ということです。講談社、野間家を主役にして日本の出版史ひいては近代史を紐解かれましたが、それは現代社会が抱えている大衆、メディア、権力の問題に対する危機として照射されている。だから本書は歴史を扱いながらも極めてアクチュアルな1冊である、そんな印象を持ちました。 魚住 私はハーバーマスもオルテガもきちんと読んでいるわけではありませんが、「大衆とメディアと権力」という、今、中島さんがおっしゃった問題意識は常に僕の頭の中にありました。「大衆とメディアと権力」の関係性を明らかにしなければ、現代を理解できない。そして現代のことを理解するためには近代を知る必要がある、これは今までの記者としての取材経験が元になって、自然と形づくられた僕の確信です。近代をテーマにしながら現代を照射する作品を書く、というのは長年の念願でした。今回、たまたま講談社の多くの方のご協力やご厚意によって、講談社、そして創業家である野間家の歴史を詳細に記した資料に出会うことができ、本書を書くことができました。 でき上がった本を前にして、よくここまでたどり着けたな、仲間に恵まれたんだな、運も良かったんだなというのが今の正直な気持ちです。 大衆の誕生、講談社・岩波書店・平凡社の創業 横山 日本において中島さんのお話にあったハーバーマス的な公共圏のような空間は、結果的に上手く形成できなかったと言っていいと思います。しかし、その代替として出版文化が醸成され、大衆に対する情報提供を担ってきました。その役割を果たした主要人物として中島さんが以前評伝をお書きになった岩波茂雄と下中彌三郎、そして今回魚住さんが描いた野間清治(以下清治)が挙げられると思います。そこでヨーロッパとは異なる過程で形成された大衆の特質とそれに呼応する形で出版が発達していった日本的現象をおふたりがどうご覧になったかお伺いしたいです。 中島 今ご紹介いただいた2冊の評伝、『岩波茂雄 リベラル・ナショナリストの肖像』(岩波書店)は2013年に、『下中彌三郎 アジア主義から世界連邦運動へ』(平凡社)は2015年に刊行しましたが、これは各社の創業100周年記念事業の一環として出版でした。つまりこの10年前後の時間というのは明治末から大正初期にかけて出版社が次々と勃興していったちょうど100年後のタイミングにあたるわけです。講談社は前述の2社よりも数年早く創業していますが、今から100年前に現在も続く出版社が立て続けに創業された同時代性をどう捉えるべきか。 この3社が出来てきた時期を年表的に見てみると日露戦争が大きなトピックとして記されています。そして日露戦争終結後、日本に対して結ばれた講和条約に反対する群衆蜂起が発生しますが、その象徴が日比谷焼き討ち事件です。この事件は『出版と権力』中でも大きなポイントになる出来事で、なぜならこの群衆蜂起はマスメディアが煽り立て、集まったモブが暴力装置として大きな力を持ち政治に圧力をかけたものであり、それまでの一揆や自由民権運動とは明らかに性質が異なります。だからこの日比谷焼き討ち事件こそが日本における大衆誕生の瞬間だったといえるのです。そして大衆の誕生に呼応する形で講談社、岩波書店、平凡社などの新興出版社が次々に出来た。この大衆の誕生と出版社創業の相互関係を見ることと並行して創業者の清治、岩波、下中の三者が大衆に対してどのような見解を持ち、それぞれがどうアプローチしていったかを丁寧に見ていく必要がありますね。 横山 三者の見解の違いとは対象の違い、すなわち岩波がこの時代のトップエリート層、下中が知的エリートになりそこねた人たちの層、そして清治が初等教育しか受けることしかできなかった最も広範囲の社会の裾野の層、とそれぞれが異なる階層にアプローチしていった違いだった、といえるでしょうかね。 魚住 講談社はもともと『雄弁』という弁論雑誌からスタートしていますので、創業時は岩波書店ほどではないですがエリート学生、あるいはその予備軍を読者層に想定していたのですね。ところが大逆事件の影響で政府の厳しい取り締まりにあい『雄弁』の部数が半減します。そこで清治は生き残り策として講談社の名前の由来になった『講談倶楽部』という雑誌を発行しますが、これは『雄弁』とは真逆の、社会の裾野に位置する大衆を読者設定したつくりをしました。やがてドル箱雑誌となった『講談倶楽部』が講談社の基礎を築き、その後の方向性を決定づけることになったのです。 このように新しい時代の社会の流れをいち早く敏感に摑み取る力を持っていた清治はまさに天才的な事業家だったいえるでしょう。岩波、下中にもそれぞれ清治とは違う魅力はありますが、国家や大衆の動向を察知するという意味での清治の先見性は圧倒的だったと思います。 中島 三者の人物比較をもう少し掘り下げると、出自が似ているのは下中と清治ですね。両者とも岩波のようなトップエリートではないし、なおかつ教師という仕事を経て出版業界に足を踏み入れたということからも、似た経歴同士です。性格的にもワンマン的なところを魅力にかえることができたという共通点もあります。 かたや一度はドロップアウトしたとはいえ、一高に進学しエリートコースを歩んだ岩波はふたりとはだいぶ違っていて、彼は日露戦争前後の時期に生まれた大衆とは異なる、新しい若者像にどっぷりハマっていった人です。この新しい若者像について少し解説をします。これは司馬遼太郎さんの小説『坂の上の雲』のタイトルを分析するとわかりやすいのですが、坂というのは幕末から明治にかけての日本が欧米列強に対する憧れと劣等感を抱きながら、富国強兵、殖産産業によって近代化し、一等国を目指して国民一丸で登っていく道程のメタファーですね。明治初期の若者たちというのはお国の目標と自己の出世欲が一致していたので、ひたすら坂を登っていくだけでよく、ある意味わかりやすい存在でした。そして日本は日露戦争を経てようやく坂の上の雲に手が届くところにたどり着きました。しかし雲というのは遠くで見るのとは違い、目の前に立つと実体はないし、摑みどころもない。その上先行きも見えなくなる、というものですよね。この雲のイメージが今から100年前の新しい若者像と見事に合致するのです。明治初期の若者たちのように立身出世に意味を見いだせず、それよりも自分の生きる意味を模索したのが新しい若者像で、この若者たちを生み出していったのが一高という国内最高峰の知的空間で、この世界に飛び込んでいった岩波は夏目漱石や藤村操らの影響を享受していきました。そして一高文化の代名詞であるデカンショ節が醸成されていくような、文化のさきがけを掬い上げるために岩波は古本業をはじめ、やがて出版業へと向かっていくことになりましたので、清治や下中とは住んでいる世界があまりにも違うのですね。 かたや清治と下中は雲の中にいる人々ではなく、その下の大衆を見ていました。そして彼らは大衆を相手に己の立身出世を図った。ところが清治と下中が見ていた大衆像は多少異なっていて、清治は社会の裾野に位置する人々とがっぷり四つで組み合いましたが、下中の場合、岩波と清治の中間にいる知的領域に強い憧れを持っている人たちを相手にしたのです。下中自身トップエリートに仲間入りできなかったコンプレックスもあり、『や、此は便利だ』という小事典や後に百科事典を出版して知的領域にアクセスするツールとして仕掛けていきました。このように同時期に出版業をスタートした3人が見ていたものを比較するだけでもだいぶ違いがあるので面白いですよね。 野間清治の魅力と危うさ 中島 もうひとつ、下中と清治の決定的な違いはイデオロギーの有無でしょう。下中は世界を統一したい、ユートピアのような世界に住みたい、という大きな理想を持っていました。そのために何をすればよいか、ということが彼の活動の源であり、大正自由教育運動にも関わりを持ちながら、皆が平等に生きていける共産社会の成立を目指した人です。一方、清治には下中のようなイデオロギーや大きなビジョンは見受けられない。 魚住 確かに清治のイデオロギーの部分は書きながらずっと疑問でした。講談社が戦時中に忠君愛国を全面に掲げていたことはよく知られていますが、実は清治自身、割と親英米的で開明的なところがあり、あるいは平和主義的な一面もありますが、決して左翼ではない。だから彼の思想はよくわからないままだったのですが、後年、野間省一(以下省一)が、清治の精神性を任侠、あるいは江戸の町人社会の精神が中核にあったのではないか、と述べています。清治が講談の『八犬伝』を愛読していたことを踏まえての発言ですが、もしかするとこれこそが清治の本質を一番捉えているのではないか、今はそんな気がしています。 中島 まさに『八犬伝』そして講談こそが清治のことを理解する上で最も重要なポイントでしょうね。それは講談社の立ち上げにも大きく関係してきます。先程魚住さんのお話にも出た大逆事件がひとつのきっかけとなって、政府は国民を思想的に善導していかなければならないというモチベーションを持ち、民衆教育に乗り出します。それ以前なら教育は個々の共同体に委ねることができましたが、共同体が流動化して都市社会が生まれ、大衆が成立していくなかで、国家イデオロギーを広く植えつけるために政府は講談に目をつけます。それまで講談は程度の低い娯楽だと捉えられていましたが、それを民衆教育のツールとして使おうとする動きが出てきた。これに敏感に反応したのが清治でした。清治自身、国家イデオロギーに共鳴したわけではなく、あくまで彼の中には『八犬伝』に流れる任侠の精神があっただけで、くしくも大衆の誕生によって政府の思惑と清治はアクセスするに至ったわけです。そして『講談倶楽部』が刊行され、講談社として独り立ちしていくことになる。講談が持っているある種の封建的な道徳精神が清治を形づくり、彼が重んじた修養を大衆に投げかけたのです。 ところで清治が『講談倶楽部』について語った一節が本書では引用されていますが、清治が大衆というものをどう考えていたのかがよくわかる部分があります。 「衆なるものを愚として衆愚衆愚というような言葉が当時はやっていたが、自分は衆賢である。(中略)衆なるものは賢、衆賢である。神の如く畏れて懼れなければならぬ。」(本書197頁) ところが、この衆がなかなかの曲者で。実は本書を読み進めながら吉本隆明さんのことを思い出したんですよ。吉本さんは「マチウ書試論」以降、大衆との絶対的な関係を結ぶということを長年のテーゼとして考え苦悩し続けました。なぜなら衆というものはときに暴力的にもなるし、なにをしでかすかわからない危険性をはらんでいる生半可な存在ではないからです。実は清治にも吉本さん的な衆に対する思いがあり、自分なりに受け取り直そうとした。そんな心境が垣間見える部分ですし、それが清治、ひいては創業当時の講談社の魅力であり、同時に危うさを含んでいた部分だったように思います。 魚住 まさか吉本隆明と清治がつながるとは思ってもいませんでしたので、今のお話を聞いて目から鱗でした。(笑)。でも言われてみると確かに大衆というものをどう捉えていくかということは両者の大きなテーマですし、それは時代を経た現在の我々が突き止めなければならない問題でもあります。しかしいまだ本当の姿を捕捉できていない。それこそがまさに危機的状況なのだと言えるのでしょうね。 中島 魚住さんのおっしゃるとおりで、特に今考えなければいけないのがポピュリズムの問題ですよね。話をしながらふと思い浮かんだのが山本太郎という人の存在です。知識人やリベラルの方は彼を軽視しがちなのですが、彼は前の選挙で大きなムーブメントを起こしました。それはリベラル層が支持している立憲民主党が手を差し伸べることが出来なかった真の大衆を相手にした結果であり、山本太郎という現象を扱いきれていない、つまり大衆というものに向き合ってこなかった日本のリベラルの脆弱性を見た瞬間でした。それは僕も反省すべきですし、また同時に彼が起こしたムーブメントに対してリスペクトを忘れてはいけないと肝に銘じているんです。一方でこのムーブメントが危険なのも事実で、異なる意見の他者に対し暴力的な言説や態度にでるおそれはどうしても拭えません。だから大衆をどう考えるかは歴史の話ではなく、今の課題なんです。その大衆に正面からぶつかり、清濁併せ呑みつつ『キング』をはじめ様々な出版を通じて大衆の精神を掬い上げた清治のことを描いた本書は、まさに時宜を得た出版なのだと言えるでしょうね。 講談社の弱さを招いたもの 中島 この本の要所は三つありまして、ひとつは前述の日比谷焼き討ち事件と大衆の誕生です。次に関東大震災における朝鮮人虐殺の問題に対して講談社がビビッドに反応できなかったこと。そして日中戦争が始まり、清治が情報部の参与になることによって、当初の冷ややかな態度を大きく旋回させて次第に飲み込まれていった事実。この三つが挙げられると思います。 まず、関東大震災における清治の姿勢についてお伺いしたいのですが、魚住さんは関東大震災を描くにあたり、清治の対照として吉野作造のエピソードを書かれていますよね。吉野は関東大震災における朝鮮人虐殺が起きたときの大衆の振る舞いをみて日本人に反省を促す論評を発表し、その後大学の職を辞したことにまで触れています。しかし一方の清治について魚住さんは次のように評していらっしゃいます。 しかし、残念ながら清治には、関東大震災で朝鮮人を虐殺した日本社会の暗部に目を凝らそうとする姿勢は見られなかった。(本書269頁) この先いくつかエピソードを挟んで1年後に創刊を控え、講談社の一大転機となった雑誌『キング』誕生エピソードに移行していくわけですが、関東大震災時の清治の態度をどうご覧になったか改めてお話いただけますか? 魚住 端的に清治の限界が露見した場面だったといえるでしょうか。関東大震災の直後に『大正大震災大火災』という本を出版しましたが、そこで朝鮮人虐殺について批難するような言説を行わなかった。それこそが彼の限界であり、清治という天才的な出版人にとって最も欠けていた部分だと言えますね。もし彼が朝鮮人虐殺を問題視し、『大正大震災大火災』のなかできちんと取り上げていたら、その後の講談社の歴史は全く変わっていたように思います。後年、講談社は陸軍との関係を深めていき、そのおかげで戦時中に大儲けをしましたが、戦後になるとそれが裏目に出て一時危機的な状況になる、という歴史を辿りました。この陸軍とズブズブになっていった講談社の弱さを招いたのは、朝鮮人虐殺を一種正当化するような文言で短く触れておしまいにした清治の態度が一因となっている、そんな気がします。 中島 その弱さこそが大衆の時代を生き、『キング』という雑誌によって巨大な力を得ながらも、それがそのまま権力に飲み込まれていくことにつながるわけですね。 今の魚住さんのお話にもありましたが、昭和13年に清治が亡くなったあと講談社と陸軍の関係はどんどん深まっていきます。陸軍推薦の顧問団を受け入れたことにより、戦時中にもかかわらず紙が融通され莫大な利益を得たのですが、それを苦々しく思っていた出版人の1人が文藝春秋の池島信平でした。 ところで、もし清治がもう少し長生きして大東亜戦争、そして戦後の時代を生きたとしたら講談社はどんな展開を迎えることになったのだろうか、そんなことも考えてしまったのですが、魚住さんはどうお考えになりますか? 魚住 ちょっと言い過ぎになるかもしれませんが、今の講談社はなかったでしょう。そもそも創業時の講談社の基本コンセプトは「おもしろくて、ためになる」ですが、それが『キング』創刊以降は「世のため人のため」というふうに変化していきました。そして戦争が近づいてくると今度は「国のため」、という要素が加わり、最終的には「雑誌報国」を旗印にします。特に清治の後半生は道徳主義的な色合いをより強めていった側面があって、彼が亡くなる直前にはすでに大衆から乖離していたのかな、という印象を受けました。それが清治晩年の報知新聞社の経営失敗にも現れるわけですが。 「報知新聞」というのは現在の「スポーツ報知」のイメージとは違って戦前は伝統のある大新聞社でしたが、昭和5年に清治が経営権を受け継ぎ、亡くなるまで続けます。清治は「報知新聞」の紙面を善行美談主義、世の中のためになり、人々が手本にしたくなるようなニュースをたくさん載せるという編集方針を打ち出しましたが、結果的にこれが大失敗で会社の赤字は膨れ上がるばかりでした。それとは対照的だったのが正力松太郎に買収された「読売新聞」で、イエロー・ジャーナリズムの極地のような紙面展開が大成功して今の大新聞社としての基礎を築いたのです。 清治が「報知新聞」で打ち出した善行美談主義の精神は当然同時期の講談社の雑誌のなかにも流れていますが、雑誌はそれほど大きな失敗にはなりませんでした。なぜ雑誌と新聞で明暗が別れたのか、その理由ははっきりしないのですが、少なくとも戦後の社会では清治がうたった善行美談主義、道徳主義は受け入れられなかったでしょうね。だからこそ4代目の省一は清治とは違う路線、いわゆる総合出版社化を目指し、現在の講談社を築き上げることができたので、中島さんの問いに対する僕の回答は、清治が生きていたら講談社は多分コケていただろう、ということです(笑)。 横山 今の魚住さんのお話の補足になりますが、清治がいわゆる大東亜戦争、アジア・太平洋戦争後も生きていれば間違いなく正力松太郎と並んで「巣鴨行き」になったでしょう。それに報知新聞社主催の北太平洋横断飛行企画に幾度の失敗にも関わらず固執し続けたあたり、晩年の経営判断には衰えが見えていたような気がしますね。一方でキングレコードを作っているので、その点では相変わらず目端の利く人でしたから、もし、もう少し長生きしていたら正力同様テレビに手を出しただろう、というのは容易に想像できます。 中島 今の話と少しズレるかもしれませんが、本書の中で清治は当初『講談倶楽部』という名前に反対していたというエピソードがあり、清治は『講談倶楽部』ではなく『快談倶楽部』という名前を推しますよね。それは講談というジャンルに一元化されたくないという思いがあったからで、落語など他の娯楽的要素も取り込んでいこう、という可能性を示唆した場面なのですが、結局『講談倶楽部』を受け入れ、それが今の社名につながっているわけですが。ではここで『快談倶楽部』を通し、社名が快談社になっていたらどんな歴史を辿っただろうか、ということを思い巡らせてみたんですよ。 講談と落語の違いは何か、これは立川談志さんが大変わかりやすい説明をしています。例えば赤穂浪士を題材にした場合、講談は討ち入りの場面に登場する人たちをカッコよく描くが、落語は討ち入りから逃げてしぶとく生きた人間を描くのだ、と。つまり講談と落語は同じ題材でも描く勘所が異なり、落語が持っている人間の業を肯定する面白さに惹かれたからこそ談志さんは落語を選んだそうです。 『快談倶楽部』の話から推測するに、若い頃の清治は実は講談と落語、両方の勘所を持っていたのではないでしょうか。ただ彼は『講談倶楽部』を選んだことで講談側、ひいては権力側の思惑に飲み込まれていくことになった。もし彼が『快談倶楽部』を選択していたら、戦争になだれ込もうとする大衆を直視するのではなく、少し視点を変えてそこから逃げた人たちに焦点を当てて、その業を笑ってみせたのではないか。そんな人間的な強さを持ち合わせた非常に魅力的な人物だったので、若い頃の気持ちのまま大東亜戦争を迎えていたとしたらもう少し違う結末を迎えることができたのではないか、そんなふうに思ったりもしました。 野間省一の思想 横山 昭和13年に清治と2代目の恒が相次いで亡くなったあと、3代目となった左衛(清治の妻=恒の母)という女傑が、血の論理ではなく外部から優秀な人を連れてきて後継者に据える、という決断をします。この英断こそが講談社が現在も続いているひとつの理由だと思うのですが、しかし当の左衛さんが何を考えていたか、現存する資料からはわかりませんので、魚住さんも描ききることがむずかしかったと思います。 南満洲鉄道(満鉄)から高木省一を迎えたことによって、その後の講談社は清治イズムの浸透した体質から徐々に変化を遂げていくことになります。省一はいちばん尊敬する人物に下中彌三郎を挙げていたことからも、清治イズムからの脱却を果たそうとしたことがうかがえます。それゆえ戦後しばらくして省一が社長になってからも、一部の社員から白い目で見られたりもしました。しかし、講談社の新しい道筋を作るべく戦ってきた彼のドラマは、敗戦後の日本が民主化を成し遂げていこうとする局面とリンクする部分であるとも思います。そこでおふたりに本書のもうひとりの主人公である省一という人物をどのようにご覧になったかお聞きしたいのです。 魚住 これも書きながら感じたことなんですけれども、省一も清治と同じで思想的背景がわかりにくい人物なんですね。それは本人が自分のことをあまり語らなかったということも関係していますし、省一と交友関係があった人たちを見ても、戦後間もない頃は例えば満洲国の生みの親のひとりである駒井徳三や経済学者の難波田春夫といった右寄りの人が割合多かったし、かたや同時期には宮沢喜一、彼は自民党の中でも左派寄りの人ですが、その宮沢を大変可愛がっていました。また晩年の日本書籍出版協会の会長になった時期には青木書店社長の青木春雄や理論社社長の小宮山量平、新評論社長の美作太郎ら左翼系出版社の面々が省一の熱烈なサポーターとなって彼を支えるようになりましたので、省一の思想を左右に分けることが難しくて、非常に捉えにくい人だという印象を持ちました。 ただ、省一のことを調べていくうちに、下中彌三郎を尊敬していたという証言を見つけることができたので、早速中島さんの『下中彌三郎』を読みました。そして省一は下中の根底に流れるユートピア的なアジア主義に惹かれていたのではないか、ということが見えてきて、その視点で改めて資料に目を通すと、ようやくおぼろげながら省一の思想の核の部分が見えてきた、というのが実情なんです。だから本書執筆にあたって中島さんの本には多分に救われました。(笑)。 中島 恐縮です(笑)。 実は僕が『下中彌三郎』を書いたとき、なぜ下中は後継者に省一を選んだのか、というところがあまりピンときていなかったんですよ。だから今回本書を読んでふたりを結びつけたものがようやく見えてきたと言いますか。省一という人は戦前満鉄に勤めたことによって日本の未来を作っていく、というある種のロマンを見ますよね。それが戦後、出版という事業を通じて社会を切り拓いていくのだ、と変化するわけですが、そういったエリート的な設計主義が下中に対する強いシンパシーになったのではないでしょうか。 実は省一的な視点で清治を見てみると、清治のアンビバレントさが余計に際立ちます。清治も下中も大衆の持っているエートスをどう扱うかということに心血を注ぎ、この精神は省一も継承した部分でしょう。その反面、清治には下中と違い社会をどう導くか、という大きなヴィジョンがなかった。清治の思想のなさこそ講談社の弱さの原因だと、省一は捉えたのではないか。その是非は別にして、省一なりの考えがあったからこそ戦後の講談社の発展につながったことは間違いないですね。 歴史を扱うこととは 魚住 序章にも書いたのですが、本書を書くにあたって2巻本の講談社社史『講談社の歩んだ五十年』のもとになった150巻にもおよぶ秘蔵の合本資料にあたることができたんです。この合本を作ったのが元少年部出身で講談社の生き字引的存在だった笛木悌治さんという人で、集められた膨大な資料にはナンバリングが施してあり、1巻ごとに頑丈なカバーがつけてありました。それを目にしたとき、この合本資料を後世に残すことが自分の仕事なんだ、という笛木さんの並々ならぬ熱意が伝わってきたんです。 中島 魚住さんが本にお書きになった大量の資料がドサッと目の前に現れた瞬間というのは、歴史家として実にハラハラする場面です。その魚住さんが講談社50年の歴史を書いた先人たちの息吹をどう受け止めた、あるいはぶつかっていこうとされたのか、ということは大変興味の湧く話です。 僕の場合、『岩波茂雄』を書いたときは、岩波書店から手付かずの大量のダンボールをお預かりしたんですよ。そのダンボールには、過去に安倍能成が岩波茂雄の伝記を書いたときに使用した大量の資料が入っていて、提供された全ての資料を安倍能成がダンボールに詰めて返却したものが長年ほったらかしで、そのまま僕のところにまわってきたわけです。それを何十年ぶりに開封して整理し直すところから始めたのですが、彼がどの資料を使い、またあえて使わなかったのかを知ることができ、大変興味深かったのと同時に、僕が岩波のことを書く上で過去の安倍能成とどう対峙するかを強く意識することになったんです。 一方、下中の場合は岩波と違って過去に評伝はなく、その代わりに『下中彌三郎事典』(平凡社)といういささか奇妙な1冊があります。これはおそらく先人たちが下中に対して1つの人物像を描くことができず、苦心の末、事典形式で項目別に下中を紹介する方法をとったためでしょう。だから先人たちが果たせなかった下中という人物に一本の筋をつけることが僕の仕事なのだと理解し書きすすめたのですが、魚住さんの場合、どのような思いでこのお仕事に取り組まれたのですか? 魚住 僕は『講談社の歩んだ五十年』の編纂に携わり、また資料を合本としてきちんと残した笛木さんには大変敬意を抱きましたし、清治の熱烈な信奉者であったにも関わらず、清治のいいところも悪いところも記録として残して後々公開することを目指した姿勢に近代的なジャーナリズム精神を感じました。同時に僕のような第三者に秘蔵の資料をボンと出し、好きに書いていいと言ってくれた今の講談社の態度に笛木さんの精神が根付いているのだなとも思いましたね。もしかすると笛木さんの、いいところも悪いところも全て記録に残そうという精神こそが戦後の講談社の発展に寄与している1つの要素なのかもしれません。 尊敬すべき先人である笛木悌治さんが5、60年後の後進に残した資料を、たまたま今回、僕が読むことになりましたが、笛木さんからのバトンを受け取った僕としては次の5、60年後の僕と同じような仕事をやる人たちがもう一度日本の出版史、あるいは近代史を知るために活用できる、そんな本にしたかった。そのような意識だったのですが、それが果たして成功したかどうかはわかりません。けれどこの本は僕にとって5、60年後の僕のような者に対して書いた手紙のようなものだとも思っています。 中島 歴史を扱うことは死者との対話だといえます。しかし、それは決して後ろ向きな態度ではなく、死者との対話があるからこそ我々はまだ見ぬ未来の他者に向けた対話ができるようになるのです。例えば石牟礼道子さんは水俣病が目の前の問題として現れたときに田中正造を調べたそうですが、それが傑作『苦海浄土』に繋がりました。そのはるか未来の今、福島の原発事故に直面したとき、僕らのような人間は『苦海浄土』を読みこみ、3.11を深く考え、発信していく。それを次の世代の人たちに受け取ってもらい、その人たちが生きている今を考えるきっかけにしてもらいたい。過去との対話がまだ見ぬ未来に繋がっていく、その意識を大事にすることが歴史を扱う上で最も大切な姿勢なのだということを魚住さんの発言から改めて感じさせられました。 今の講談社について 中島 魚住さんは本書の終章で2017年に講談社から刊行されたケント・ギルバート著『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』の問題提起をされました。今の講談社からこのような本が刊行されることについてご自身のお考えを魚住さんはこの本の締めくくりに刻印されましたが、今日の対談の最後にこの一節を書くに至った思いをお聞きしたいです。 魚住 はっきり言って講談社からこういった本が出版されたのはショックでした。戦時中の過ちを反省し、戦後は数々の良質な出版をしてきた日本最大規模の出版社が、この時期にこのようなヘイト本を出した事実に、僕は正直落胆しましたし、このことはきちんと書き残しておかなければ公平ではないと思ったんです。書いた後にこの部分は削ってくれと言われるかもしれない、そんな心配をしないわけではありませんでしたが、そうした介入もなくそのまま載せてくれました(笑)。これは出版社としてフェアな態度ですし、まさに笛木さんの精神を受け継いだといえる対応で、講談社の懐の深さを痛感しました。 また、それは野間省伸現社長の姿勢にも現れていて、彼は自分の会社の提灯記事が書かれたところでちっともうれしくないと言うんですね。むしろ批判を喜ぶ面があって、取材をしながら面白い人だなという印象を受けました。そういったことも含めて僕は最後にこの一節を書いてよかったと思っています。そうでなければこの本自体の公正性が疑われたでしょう。もちろん僕の書いた文章で傷つけてしまった人もいるはずなので、その方に対して申し訳ないことをしたと思いつつも、これは書かなければいけない一文だったと思っています。 中島 講談社の懐の深さと風呂敷の大きさ、この強みがこういった出版につながる弱みになったことを象徴する一事と言えましょうか。清治の時代の伝統がまだ続いているんだな、としみじみ思いました。そして横山さん、失礼しました(笑)。 横山 『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』は実際数十万部売れましたので、それを良しとする空気は、出版といえども商売ですから当然あります。それはそれ、です。同時に魚住さんのような――私もそうですが――カウンター・オピニオンもあるので、この両面を抱え込めるのは、まさに清治の思想の無さゆえといいますか(笑)。講談社のヌエ的性格については、今回魚住さんに戦時中の講談社が軍部と結託してやってきたことやヘイト本のことをありのままお書きいただき、それを自社から刊行することができたので、自分たちの手で総括できたという意味でもとてもよかったと個人的には思っています。 一方で講談社の歴史を振り返りつつ、今日のお話の中でも今の問題がいろいろと浮かび上がったわけで、たとえば戦時中、紙が融通されなければ、出版社として致命傷を負うかもしれなかったために軍部と手を結ぶに至った、という事実が示すように権力側は常にメディアをコントロールする手段を持っています。また、これからは紙ではなくデジタルの時代です。GAFAに代表される巨大プラットフォーマーとどうつきあっていくのか。この先直面する問題はあまりに大きい。今までとは異なる新しいメディア・リテラシーが要求されるなかで、われわれ編集のプロがどう対応していくべきか、あるいは新しいメディアが次々と勃興していくなかでいかに公平さを担保すればいいのか。日々悩み、模索している最中です。 中島 僕は今政府で進められているデジタル改革関連法案こそが今後に禍根を残す重大なポイントだと思っていて、この法案が提出されたことに対してあまり声があがらなかったことがまさに大問題なんですよ。これはデジタル化された僕たちの情報を政府がどう握るのかということと直結することなので。紙からデジタルにシフトしていくなかで、政府はデジタルを制して監視社会のような形をつくり統御していこうとしていますが、それを忖度によって行動が制限されるようになると出版社生命にも関わります。だからこそ何をしなければいけないか、それを今真剣に考える必要があるんですよ。 魚住 今の中島さんのお話は完全に同意です。デジタル化推進の問題を今まで僕らは真面目に考えていなかったけれども、この危険性をきちんと認識して、今からでも対処の方策を議論していかなければいけないでしょう。これは終章でも書いたことですけれども、講談社は省伸社長の号令のもと早くからデジタル化に舵を切って、今の出版不況のなかで比較的成功をおさめた一例ですが、講談社のように出版社が独自にデジタル化を進めて生き残りを図ろうとする路線と、国によるデジタル支配の動きは、今後どこかでぶつかることになる。では、ぶつかったときに出版社側が何を発言でき、行動していけるか、これがこの先問われるでしょう。ぜひ講談社には国家の支配下におかれない独自のデジタル化路線を取っていただきたいと切に願います。(おわり) ★うおずみ・あきら=フリージャーナリスト。一橋大学法学部卒業後、共同通信社入社。司法記者として、主にリクルート事件の取材にあたる。1996年、共同を退社。主な著書に『野中広務 差別と権力』(講談社ノンフィクション賞)『特捜検察』『特捜検察の闇』『渡邉恒雄 メディアと権力』『国家とメディア 事件の真相に迫る』『官僚とメディア』など。1951年生まれ。 ★なかじま・たけし=政治学者、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究科博士課程修了、博士(地域研究)。専門は南アジア地域研究、日本思想史、政治学、歴史学。主な著書に『中村屋のボース』(大佛次郎論壇賞、アジア・太平洋賞)、『ナショナリズムと宗教』(日本南アジア学会賞)、『親鸞と日本主義』、『ガンディーに訊け』、『保守と大東亜戦争』など多数。1975年生まれ。