柿埜真吾インタビュー 『自由と成長の経済学』(PHP研究所)刊行を機に読書人WEB限定 自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠 著 者:柿埜真吾 出版社:PHP研究所 ISBN13:978-4-12-005445-7 斎藤幸平著『人新世の「資本論」』(集英社)がベストセラーである。気候変動、コロナ禍といった直近の課題をどう解決するか、新しい時代のマルクス経済学の観点で考察1冊として多くのメディアにも取り上げられている。果たして斎藤氏の主張は正しいのか? 今まで批判的に検証されることが少なかった『人新世の「資本論」』を真っ向から批判し、細かく問題点をあぶり出した柿埜真吾著『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』(PHP研究所)が刊行された。 資本主義社会が人類にもたらした恩恵、共産主義社会が辿ってきた歴史などをデータをもとに紹介しつつ、正々堂々としたスタンス、論拠で斎藤氏批判を展開した著者の柿埜氏にインタビューをし、今ブームの「脱成長コミュニズム」の危険性などを語ってもらった。(編集部) 『人新世の「資本論」』は何が問題か? ――柿埜さんは新著『自由と成長の経済学』で斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』を痛烈に批判しています。まず、本書で論じられた「脱成長コミュニズム」の誤りについて簡単にご解説いただけますか。 柿埜 まず、斎藤幸平氏は自身のベストセラー『人新世の「資本論」』で、資本主義のもとでは必ず経済成長が起き、それが原因で温暖化による環境破壊、あるいは自然災害もたらす。だから資本主義をやめて資源をみんなで共有し管理する共産主義を目指そう、といったことを論じているのですね。これが大まかな「脱成長コミュニズム」の論旨です。 私は本書を通じてこの「脱成長コミュニズム」の問題点を指摘したわけですが、まず一番の大きな問題は脱成長を目指す社会、あるいは共産主義社会は環境に優しくない、ということがいえます。チェルノブイリ原発事故をはじめ現代社会の深刻な環境破壊を頻繁に起こしているのはソ連のような共産主義国ですよね。そもそも共産主義体制下では資源を効率的に使うことができませんので環境破壊を誘発しやすいのです。 それにも関わらず斎藤氏は気候変動による災害、または現在のコロナ禍すら資本主義による弊害だとみなし、あたかも人類がこれまで歩んできた道が間違いだったといわんばかりですが、それは間違いです。なぜなら資本主義社会が成立するはるか以前から人類は何度も壊滅的な疫病、例えば黒死病のようなものに見舞われていますし、あるいは大規模な自然災害にも繰り返し直面しています。ですから斎藤氏が説く「資本主義以前の世界は自然と調和した豊かな社会だった」というのは完全な幻想であり、資本主義社会が進展している現代のほうが疫病や災害の被害が格段に減少している、これはデータからも明らかなのです。 さらに「脱成長コミュニズム」社会では、すべての資源の使い道を共同体 内での話し合いによって民主主義的に決めるといいます。これ自体聞こえはいいのですが、このやり方をとる以上、全会一致でないかぎり多数派の意見が押しつけられる専制政治、あるいは権力者が独断的にルールを決める独裁政治に陥り、最終的に自由のない全体主義社会に行き着いてしまう危険を孕んでいる、そういった問題を抱えています。 斎藤氏によれば、「脱成長コミュニズム」は使用価値経済です。この社会では、「意味のないブランド化」、「マーケッティング、広告、パッケージングなどによって人々の欲望を不必要に喚起することは禁止され」、「「使用価値」を生まない意味のない仕事」も認めないというのです。 しかし、一体誰がその「使用価値」を決めるのでしょうか。資本主義では、ある商品に価値があるかどうか決めるのは一人一人の消費者で、多様な選択ができますが、共同体で資源の使い道を決める社会では、よくても多数派の意見の押し付け、悪くすると独裁者の主観が商品や職業の価値を決めることにならざるをえません。これが言論の自由も職業選択の自由もない全体主義社会であるのは明白でしょう。 「脱成長コミュニズム」社会の行き着く先 ――今お話いただいたように「脱成長コミュニズム」は決定的な問題があるにも関わらず、どうして『人新世の「資本論」』で論じられている斎藤氏のアイディアは多くの人に支持されているのでしょうか? 柿埜 「脱成長コミュニズム」が盛りあがっている理由を挙げるならば、今のコロナ禍による閉塞感に満ちた息苦しい社会とは違う希望のある場所に行きたい、そんなふうにみんなが思っているからなのかもしれません。 ではマルクス主義的なものが人びとを理想の社会に導いてくれるのかというとそんなことはないのです。どうしてそう言い切れるかというと、マルクス本人が理想的な社会のイメージを描くことができず、具体的なビジョンを彼は著作のなかではほとんど残すことができなかったからです。そのためマルクス亡き後のマルクス主義者たちは好き勝手に自分の望む理想社会を夢想して、そこにマルクス経済学というフォーマットを当てはめていったのですね。ある意味これこそがマルクス主義の強みだともいえるのですが。ただ、共通の絵が描けない以上、マルクス主義者同士で解釈の違いを巡ってしばしば論争が起きますし、ひどいときには内ゲバに発展したりもする。その歴史を繰り返して今に至り、現在は気候変動やコロナ禍といった新しいエッセンスを加えた今風のマルクス主義のバージョンが出てきた、という理解です。 もうひとつ、これは本書でも書きましたが、脱成長や共産主義的な考えの根底にはゼロサム的な発想があります。つまり「誰かの得は誰かの損である」という発想ですね。ひとりだけが利益を得るのはズルいから、資源を社会全体で均等に配分して統治していこう、という結論に至るわけです。これは資本主義成立以前のはるか昔からある人類の根源的な倫理観に直結しているので、共産主義的なアイディア自体は人類にとって非常に馴染み深いんですよ。 とはいえ、今「脱成長コミュニズム」が流行るのは私にとってはすごく不思議な現象でして。なぜかというと、緊急事態宣言によって生活が規制されて、そのうえ所得も下がった今の暮らしのように、「脱成長コミュニズム」社会でもCO2排出削減のため人びとの行動を極端に制限し、なおかつ所得の減少を目指す生活を要求するわけですから、今の緊急事態宣言以上のひどい社会になるのは間違いないのです。斎藤氏の本に賛同している多くの人たちはそんな社会の訪れを待ち望んでいるということでしょうか。 ――柿埜さんは脱成長した社会のイメージとして今のギリシャの姿を挙げていますよね。 柿埜 経済破綻後の今のギリシャ国民は、所得が低下し非常に苦しい生活をおくっています。生活が苦しいと、こうなったのは誰か悪い奴がいたせいだという話になる。そんな怨念めいた感情が国中に満ちて、ものすごくギスギスした酷い社会になってしまったのです。ギリシャはもともと左派政党が強い国柄でしたが、一時は「黄金の夜明け」というきわめて排外的な極右の陰謀論政党が第三党になりました。こういった一例が示すように斎藤氏が主張する「脱成長でみんなの心が豊かになる」という論はまったく現実に適っていないと言わざるを得ないのです。 ――ところで柿埜さんは斎藤氏の論に対して仔細に批判をくわえる一方で『人新世の「資本論」』を評価している、ともおっしゃっています。このあたりについてご解説いただけますか? 柿埜 ソ連崩壊後のマルクス主義者たちは目指すべき理想を失ってしまい、まさに自信喪失の状態だったと思うんです。彼らはたびたび資本主義批判をしますが、かといって代替的なビジョンを示すわけでもなく、あげくどうしようもなくなって神頼みみたいなことすら言うようになっていましたので(笑)。そういったマルクス主義者たちを取り巻く状況のなかで斎藤氏は『人新世の「資本論」』を通じて、自身が思い描く理想の未来、将来のビジョンを提示しました。ここは評価できる部分である、ということを本書で書きました。私はあくまで斎藤氏の実現不可能な論が批判に値するから批判しているだけなのです。 例えば斎藤氏は「脱成長コミュニズム」の事例としてバルセロナの試みを紹介していますが、バルセロナは炭素税を中心にした温暖化対策を明言しているだけであって、決して「脱成長コミュニズム」的な共同体社会を目指しているわけでもないし、そこに至ることも現実的にありえない。このような非現実的な論理、主張を批判しているだけで、それこそ批判本とかにありがちな全否定、あるいは罵倒をして相手を貶める、といったことを私はまったく意図していません。あくまで敬意をもった批判である、ということはご理解いただきたいです。 それに斎藤氏の本も他者を罵倒していませんよね。もちろん辛辣な表現はありますが。思想信条が異なるだけで人格的な中傷を行い、それによって自らの主張を是とするような方もいるなかで、そういうレトリックを使わず書いたところに好感は持てますし、このあたりには従来の資本主義批判本との違いを感じました。 共同体社会はユートピアなのか ――本書の第4章で<目的を共有することもなく、お互いに知り合うことさえなく全人類の協力を実現できる方法は資本主義を措いてない>と論じています。まさに資本主義の核心をついた一節だと思いました。一方で斎藤氏が提唱するような共同体社会は個人的には息苦しさを覚えたのですが、柿埜さんはどうお考えですか? 柿埜 斎藤氏が描く未来像はいうなればゴリゴリの体育会系の部活動とその寮での生活を強制される状況だとイメージすれば理解しやすいと思います。個人的にはこういったしんどい社会で暮らしたくないですね(笑)。ご紹介いただいたように、資本主義社会というのはみんなが繋がらない社会であって、それを嫌う人たちが斎藤氏が描いたコミュニティでの生活に憧れるのでしょう。ですが、みんなが繋がっている社会というのはプライバシーのない、窮屈な社会でもあるのです。そういった人びとの関係が密な共同体社会、ひいては昔ながらの田舎暮らしを指して詩人の萩原朔太郎は次のように述べています。 「あの人情に厚い田舎の生活―そこでは隣人と隣人とが親類であり、一個人の不幸や幸運や、行為が、たちまち郷党全体の話題となり、物議となり、そしてまた同情となり、祝福となり、非難となる。…われらはむしろ都会の生活を望むであろう。そこでは隣人と隣人とが互いに知らず、個人の行為は自由であってなんら周囲の監視を蒙らない。げに都会の生活は非人情であり、そしてそれ故に、遥かに奥ゆかしい高貴の道徳に適っている」(『虚妄の正義』(萩原朔太郎著、講談社文芸文庫)より) ※編集部注=WEB上で読みやすいよう一部表記を修正しています。 つまり、共同体内でああでもない、こうでもないと常に監視され、その社会に根付く因習にみんなが従わなければいけない、そんな日々を過ごすよりも、他者が干渉しない都会暮らしのほうがむしろ道徳的である、と語っているのです。これは原田泰先生も『日本国の原則』(日本経済新聞出版)で紹介されていますが、非常に面白い批評であり、私もこの一節に同意します。 さらに付言しますと、フランスの古典『ボヴァリー夫人』のストーリーを思い出していただきたいのですが、自由で明るい暮らしを夢見ている少女が俗物的な田舎の因習に縛られた社会で望まない結婚を強いられ、その生活に満足できず不倫に走ったりするものの、周囲には3流の人物しかおらず最終的に破滅する、という内容ですよね。著者のフローベールは「フランス中の田舎でボヴァリー夫人たちが泣いている」 といった趣旨のことを述べています。まさに自由な生活を望む人にとって狭い田舎のコミュニティでの生活が何をもたらすか、ということを今挙げたふたりの文学者は明確に示唆しています。資本主義の下での経済成長とは、こうした因習的な社会からの解放だったのです。市場経済の勃興とともに自由を求めて人々は都市に移動し、閉鎖的で抑圧的な共同体社会は解体されていきました。 とはいえこういった昔ながらの共同体的生活を恋しく思う人がいるのも理解します。けれども今、我々が暮らしている社会はフローベールの時代以前の地位が低くて権利がない女性たちをはじめ、多くの人たちが旧来の因習に縛られた日々から脱出し、ようやく手に入れた自由な営みである、ということを理解しないとなりません。 ――まさにリベラルの方たちが訴えている人権意識ですよね。長い年月かけて獲得してきたはずなのに、再び自由のない社会に戻ることを良しとしている。 柿埜 哲学者のロバート・ノージックは「自分にとってのユートピアは資本主義社会で自由に創ることができる」といったことを書いています。あえて今の社会の枠組みを壊して一個人が思いついた共産主義的ユートピアのなかに無理やり人びとを閉じ込めることを目指すのではなく、資本主義社会のなかで意見に賛同する人たち同士が繋がって自分にとっての理想社会を創ればいい、それだけの話です。 フリードマンの「新自由主義」 ――第7章の冒頭、柿埜さんは「脱成長コミュニズムの妖怪」というフレーズを使っていらっしゃいます。私はこの一節を読んだときに『新自由主義の妖怪』(稲葉振一郎著、亜紀書房)という本を思い出しました。稲葉さんは<この言葉(新自由主義)に多分実体がない――具体的にまとまったある理論とかイデオロギーとか、特定の政治的・道徳的立場を指す言葉というよりは、せいぜいある種の「気分」を指すもの、せいぜいのところ批判者が自分の気に入らないものにつける「レッテル」であって「ブロッケンのお化け」以上のものではないのではないか>と「妖怪」という語を使った理由を述べていますが、柿埜さんが「脱成長コミュニズム」に対して「妖怪」を当てはめた理由を教えてください。またちょっと脱線しますが「新自由主義」という語について柿埜さんのご意見をお聞かせください。 柿埜 「妖怪」という言葉を使ったのは単に『共産党宣言』のオマージュです。「ヨーロッパに妖怪が出る、共産主義という妖怪が」という有名な冒頭の一節をもじりました。原著の「ゲシュペンスト」というドイツ語は「亡霊」と訳すことが多いのですが、「妖怪」「お化け」の意味もあります。「脱成長コミュニズム」とは何かということを考えてみても、ボヤッとしていて正体がはっきりしない、お化け、妖怪的なところがあるなと思ってこの言葉を使いました。 あと「新自由主義」をどう考えるか、というご質問ですが、これってすごく大事なポイントなんですよ。私自身、新自由主義というものをどう扱うか非常に困っていまして(笑)。そもそも新自由主義という語が何を指しているかわからない。それに自分のことを新自由主義者だと名乗っている人もまずいません。それなのに新自由主義という言葉がひとり歩きして、トランプや新保守主義、愛国主義教育といったものすべてが新自由主義になってしまう。挙句の果てに精神医学の何とか行動療法とかオタク文化、消費税増税まで新自由主義だと言われる始末です。これはもうレッテル貼り以外の何ものでもないのです。 前著『ミルトン・フリードマンの日本経済論』(PHP研究所)を書いたとき私は新自由主義という言葉に一切触れていなければ説明もしていません。一般的に新自由主義とミルトン・フリードマンを結びつけて論じられることが多いのですが、フリードマン自身、新自由主義という言葉を使ったのは実は1回だけなんです。それもデビュー前といえる、1951年のマイナーな論文「新自由主義とその展望」のなかでヘンリー・サイモンズという彼の先生の主張を好意的に紹介するときに使っただけです。 では、フリードマンはそのマイナーな論文のなかで新自由主義をどう説明したか彼の言葉を紹介します。新自由主義がいかに恐ろしいものなのかわかると思いますよ(笑)。 「個人の活動に事細かに干渉する国家権力への厳しい制限を重視しつつも、同時に国家が果たすべき重要な望ましい役割があることを明確に認識すべきである。このような考え方がしばしば新自由主義と呼ばれている思想なのである。…政府は…独占を防ぎ、安定した金融政策を実施し、悲惨な貧困を救い、…公共事業を実施し、…自由競争が繁栄をもたらし、価格システムが効果的に機能するような枠組みを提供すべきである。」(Milton Friedman(1951) “Neo-Liberalism and its Prospects” Farmand, 1951,17 February) 単純な自由放任主義、国家が巨大な権力をもって支配する社会主義、どちらにも問題があるので、それを克服するための提言です。一部極端な社会を望んでいる人以外の大多数の人たちが賛成する、最大公約数的なまっとうな意見だと思いますがいかがでしょうか。もし新自由主義というものをきちんと定義づけするなら、こういった意味になるので、反対する理由がありませんよね。新自由主義という言い方はあまり流行らず、その後ほとんど使われなくなりました。サッチャーやレーガンも「新自由主義をやるぞ!」なんて言ってません。 ところが1990年代頃から左派のレッテル貼りの道具としてフリードマンらを揶揄するために使われはじめるようになりました。ソ連が崩壊し、「資本主義反対」と言いにくくなったので、「新自由主義反対」と言い換えるようになったのではないでしょうか。 なおフリードマンが新自由主義という語を使わなくなったのは、おそらく単に自由主義という語で事足りると思い直したからでしょう。こういった点からもフリードマンを新自由主義者と呼ぶのは奇妙な話だということがわかると思いますし、これを学問的な用語として使うのは避けるべきです。「新自由主義が~」と書いてある本があったらそのまま閉じたほうがいいでしょう(笑)。 ――かたや斎藤氏の本には「新自由主義」というフレーズがこれでもかというくらい出てきます(笑)。 柿埜 何が悪いのかということをきちんと定義しないまま、一方的に新自由主義だからけしからん、というのは自分の好き嫌いを論じているに過ぎませんし、この語を使ってあれこれ言ったところで反論のしようもないので、新自由主義という言葉で他者を揶揄するのは知的に卑怯な行為だといえます。 70年代のライフスタイルは健全だったのか? ――斎藤氏は脱成長社会の実現を目指すために1970年代の社会に戻ることを提案しています。ところが斎藤氏が描いている70年代のイメージは非常に曖昧であり、また彼は1987年生まれだから70年代をリアルで知らないはずです。どうして斎藤氏が70年代を引き合いに出したのか、柿埜さんはどうお考えになりますか? 柿埜 なぜ70年代なのか、確かに本文中で説明していませんよね。斎藤氏は自身の本の98頁でこのことに触れた一節に脚注※26を振っただけです。その脚注で、ナオミ・クライン著『これがすべてを変える――資本主義VS.気候変動(上・下)』の上巻126頁を明示していますが、ここでクラインは次のようなことを述べています。「一九八〇年代に消費が狂乱のレベルに達する以前の一九七〇年代のライフスタイルに近い形の生活に戻る必要がある」。では、なぜ70年代に戻るべきなのか。この本のなかでたびたび参照されるイギリスの温暖化終末論の気象学者、ケヴィン・アンダーソン の発言を引用してクラインは前述の一節に続けてこう綴ります。「一九六〇年代から七〇年代にかけて、人々は健全でほどほどに豊かなライフスタイルを享受していた」。アンダーソンの発言を受けて、クラインはさらにこう続けます。「市民のためのスペースづくりや体を動かす活動、コミュニティの構築が奨励され、空気や水もきれい になる。格差の是正にも大いに役立つ」。以上のように斎藤氏が紹介したクラインの本から70年代を肯定する上での数字的な根拠はまったく挙げられていませんし、結局のところ一昔前の社会をただ美化しただけの空想的な内容だといわざるをえません。なおケヴィン・アンダーソンの主張はきわめて政治色が強いことでも知られていて、最近では環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんにも助言をしているような人物ですね。 それこそデータからわかるように70年代は公害がひどく、光化学スモッグがずっと空を覆っていたような時代です。それに比べると現在のほうが水も空気もはるかにきれいですし、エアコンやパソコン、携帯電話なども普及して、ずっと便利で暮らしやすい社会になっています。そう考えると70年代に健全でほどほどに豊かなライフスタイルがあった、という主張は私にはブラックジョークにしか聞こえない(笑)。斎藤氏は70年代に戻るということについて、ボジョレー・ヌーボーを飲むのを諦めて、飛行機で頻繁に移動することを諦めればいいだけだから大したことはないと、さも簡単に書いていますが、現実はそんな単純な問題ではないです。 ――今ご紹介いただいたナオミ・クラインの本の引用で「一九八〇年代に消費が狂乱のレベルに達する~」とおっしゃっていましたが、実際そうだったんですか? 柿埜 70年代に比べて80年代の消費が飛躍的に増加したということはありません。おそらくレーガンやサッチャーによる規制緩和が進んだという政治的イメージが気に食わないというところからでている印象論じゃないでしょうか。つまりクライン的には“新自由主義”が現れる前の時代がよかった、という発想なんだと思います。 右翼的になっていくマルクス主義者たち ――何につけてもレーガンとサッチャーが大ボスのような扱いなんですね。そしてその経済学的バックボーンになぜかフリードマンが控えているという図式で……(笑)。 柿埜 事実の検証がきちんとできていないですよね(笑)。ちなみに日本で新自由主義のネガティブな印象が強くなったのは、宇沢弘文先生あたりが晩年に近づくにつれてフリードマンなどを指して“新自由主義者”だと猛烈に批判しだしてからです。しかし、宇沢先生によるフリードマン批判も検証するとありえないことばかりなんですが。 ――宇沢先生は日本でとても人気がありますよね。 柿埜 話が多少横に逸れますが、宇沢先生が提唱する「社会的共通資本」という考え方と斎藤氏の共同体的なものを良しとするような発想はよく似ています。ところが、岩井克人先生も指摘しておられますが 、「社会的共通資本」は公共財の考え方とほとんど変わらないから、その発想は基本的にすでに普通の経済学のなかに取り入れられているのです。ですから「社会的共通資本」の発想で市場経済批判には展開できませんし、そもそも「社会的共通資本」は誰がどうやって管理するのか、という大きな問題があります。宇沢先生の論では職業倫理をもった集団が管理する、というアイディアですが、それ自体非常に抽象的ですし、その集団が既得権益保護に動いた場合、その先どう改善するかといったことにまでは考えが至っていない。結局のところ「社会的共通資本」の発想、すなわち斎藤氏の共同体論を実践したところで、晩年の宇沢先生が主張していたTPP反対のような既得権保護の動きにしかならないのですね。 私が思うに、ソ連崩壊後のマルクス主義者の人たちの議論というのは宇沢先生や斎藤氏、あるいは白井聡氏の『永続敗戦論』(太田出版)のような著作から見て取れるのですが、左翼的というよりむしろ復古主義的で、ある意味きわめて右翼的なんですよ。それも穏健な保守ではなく、それこそ皇道派のような極右的なものです。あれも基本的に個人が私利私欲を追求するのはよくないという発想、つまり資本主義の否定ですから実はかなり近い位置にいるんですね。あと内田樹氏も最近は「天皇主義者」だと自称しているので、こういった流れはとても不気味だなと思っていて……。 ピエール・ルミューというフランス系カナダ人の経済学者が面白いことを書いているのですが、「昔の右翼――これはフランスの右翼を指しますが――というのは近代化に反対し、自由主義的な考え方を否定していた。そして環境あるいは前近代的なものが大事だと主張していた。それは現代の左翼的発想と極めて似ていて、右翼と左翼が時間が経つにつれ逆さまになってしまった」といったことを述べています。これはかなり的を射た批評だなと思いましたし、だからこそ最近の風潮を危惧しているんです。 環境問題と経済の関係 ――「脱成長コミュニズム」批判をふまえて、今の環境問題に対する柿埜さんのご意見をお聞かせください。 柿埜 『人新世の「資本論」』を批判した本を書いたので、もしかすると環境問題に否定的だと思われてしまうかもしれませんが、そんなことはまったくありません。むしろ環境問題は大事な課題だと考えています。 そもそも環境問題というのは経済学的にいうと外部性の問題なのですね。簡単に説明すると、汚染物質を排出して環境に負担をかけている人たちや企業がコストを払っていない状態を外部不経済と言いますが、これは典型的な市場の失敗です。この市場の失敗を解消するために市場経済の原理に則って、環境に負荷をかけている人たちから税金などのコストを徴収することができればかなりの問題は改善できるのです。以前は赤潮が問題視されていた瀬戸内海では水質改善の結果、今はむしろ貧栄養化問題がいわれているくらいです。このように資本主義体制の先進国では過去の甚大な環境汚染の大部分が解消されたので、今度は温暖化に端を発する気候変動問題を次の課題として設定しているのです。 ところが、先ほど述べたケヴィン・アンダーソンのように気候変動による過激な終末論を唱える方たちというのは、飛行機に乗ること、肉を食べることを否定し、あるいは子どもをたくさん作ることが環境に大きな負荷をかけ悪影響をもたらす、という話をする人すらいます。そしてこのまま手をこまねいていれば近い将来人類は滅亡する、だから人びとの行動を制限して環境を守るべきだ、という結論に結びつけるのですが、これは明確に間違いだと思います。それこそ温暖化脅威論の代表的な学者であるマイケル・マンですら最近書いた論説のなかで、「温暖化懐疑論者にも問題があるが、それと同じくらい温暖化終末論者も非常に問題である。温暖化によって人類が滅亡するという主張は大きな間違いであるし、そもそも私はそんなことを言っていない」 という趣旨のことを書いています。温暖化終末論を否定することによって、温暖化懐疑論や温暖化否定論といったものに結びつけられるのは私としても本意ではないですし、温暖化について真剣に議論している学者が出している様々な被害の推計を参考にしつつ、炭素税のような形でコストを負担してもらいながら、どういった行動を取るかを各人に委ねる。こういった穏健な温暖化対策こそが望ましい社会をつくるひとつの鍵になると考えています。 ――外部性の問題というのはピグー税の話ですよね。つまり100年近く前に経済学のなかですでに解決方法は提示されている。 柿埜 おっしゃるとおりです。斎藤氏の本によって経済学が気候変動問題というまったく未知の課題に直面しているという認識がそもそも間違いであって、気候変動自体は典型的な外部性の議論ですから、経済学的には100年くらい前にすでに解決策が提示されている自明の問題に過ぎません。斎藤氏は市場経済が外部に負担を押し付けて云々と述べていますけれども、それは経済学の教科書的な考え方と真っ向から衝突する間違えた主張なんです。 今回「脱成長コミュニズム」は危ない考えだ、という批判を1冊まるまる使って書きましたが、いかんせん資本主義や経済成長に対してネガティブなイメージを抱いている方が多い印象を受けるんですね。でもそれはすごく不幸なことです。むしろマイノリティや環境などの社会的な課題に向き合おうとしている方たちにこそ資本主義や経済成長の意義というものを正しく理解していただきたいですし、資本主義という土壌があるから民主主義は花開くのだということは今後も伝えていきたいです。(おわり) ★かきの・しんご=高崎経済大学非常勤講師。学習院大学大学院経済学研究科修士課程修了。主な論文に「バーリンの自由論」「戦間期英国の不況に関する論争史」など。著書に『ミルトン・フリードマンの日本経済論』がある。1987年生まれ。