対談=岩田規久男×柿埜真吾 『資本主義経済の未来』刊行を機に読書人WEB限定 資本主義経済の未来 著 者:岩田規久男 出版社:夕日書房 ISBN13:978-4-334-99011-4 上智大学・学習院大学名誉教授で日銀前副総裁の岩田規久男氏が、「資本主義」という経済の根本的なテーマに対して、世界標準の経済理論を駆使して挑んだ、自身の研究の集大成ともいえる『資本主義経済の未来』(夕日書房刊/光文社発売)を刊行した。 資本主義はこれまで人びとに何をもたらしてきたのか。資本主義が持つ優れた機能と、反面、現在の資本主義が抱える欠陥を指摘し、その部分をいかに改修し、本来の機能を取り戻せるかを豊富なデータや様々な研究によって得られた知見から分析し紐解く、経済学の本質を突く重厚な一冊である。 本書刊行を機に岩田氏と、高崎経済大学非常勤講師の柿埜真吾氏に対談いただき、本書の内容を中心に、昨今よく耳にする反資本主義、あるいは「脱成長」的な議論についても鋭い指摘をしていただいた。(編集部) 資本主義をよりよくするための挑戦 岩田 近年の社会状況を見渡してみますと、リーマン・ショックといった経済危機や気候変動、新型コロナの世界的流行など、危機的な状況が頻繁に起きています。 このような人類の危機に直面するたびに、あたかも資本主義特有の仕組みにその原因があるとみなし、「資本主義は終わりだ」という声がしばしばあがります。資本主義社会から社会主義社会やコミュニズム(共有)社会への移行を提唱する、反資本主義的な機運が高まりやすいのですね。 これが一般社会における経済認識の総体をなしている状況だといえるのですが、そもそも、資本主義というものは自由と民主主義を守りながら人々の生活を豊かにできる機能を有しているんです。それは、多くの経済学者の研究によって歴史的にも理論的にもすでに証明されています。 ですから、そういった反資本主義的批判の誤りを正しつつ、今一度、資本主義の辿ってきた歴史を振り返る内容の一冊を、経済学における世界の標準的な理論、つまり主流派の考えに基づいて検証し直し、その上でこの先、資本主義がどう歩んでいくのだろうか、という未来を私なりに展望してみました。 それが本書『資本主義経済の未来』で、本文だけでも500頁近いボリュームがありますね。主な構成も全11章プラス終章という非常に分厚い一冊です。 資本主義の持つ良い面は、柿埜真吾さんの『自由と成長の経済学』(PHP新書)や、原田泰さんの『反資本主義の亡霊』(日本経済新聞出版)などで詳細に紹介されています。ですから、私はその前提の上で資本主義が有しているデメリットを中心に検証を試みました。 柿埜 いま岩田先生のお話にあったように、資本主義のメリットを詳しく説明した本は私のものを含めて他にもありますし、また個別の問題点を適宜解説した本はいくつもあります。では、本書の特徴は何かというと、格差から景気変動の問題に至るまで、経済学的な議論の中心をなすすべての問題を網羅的に扱い、その対策をパッケージで示された、という点です。このような内容の類書は今のところ見当たらないですね。 最近は特に反資本主義的な見方、資本主義に真っ向から反対する論調が増えていますが、岩田先生はそういった言論に立ち向かいながら、どうすれば資本主義をよりよくすることができるか、という本質的議論に本書で正面から取り組まれたのだと思いました。おこがましい言い方になり、恐縮ですが(笑)。 岩田 資本主義のもとで起きている問題として、ピケティが『21世紀の資本』(みすず書房)で論じた格差問題もありますし、そのほかにも環境への影響、そして物価と雇用の不安定化による失業の増加、などの社会的状況が確認できます。 ところが、格差の拡大や環境悪化というものは資本主義国だけの問題ではないのです。むしろ中国やロシアといった社会主義国のほうが状況としては深刻なんですね。 先に環境問題に言及しておくと、斎藤幸平氏の『「人新世」の資本論』(集英社新書)内で、気候変動をさも資本主義特有の問題のように指摘していますが、実は中国やロシアの2カ国だけでCO2の排出量は世界の33%(IEA統計、2018年)を占めていて、現実問題、社会主義国のほうが環境への影響が大きいわけです。ところが、斎藤氏はこのことには全く触れずに持論を展開しています。 もちろん、環境問題に立ち向かうためには先進国が積極的に対策に取り組む必要がありますが、一方で、こういった社会主義国の問題を放置してはいけないのです。それにも関わらず、それを無視して、脱資本主義的な発想で先進国をあげつらうのは、非常にミスリーディングです。 なお、世界の主流な経済学では、気候変動問題に対して炭素税や炭素の排出権取引といったアイディアですでに合意が取れています。この点は柿埜さんの本でも扱われていますから、本書ではあえて取りあげませんでした。 次に格差の問題ですが、確かに中国やロシアのほうが大きいのですが、一方で超大国アメリカの格差問題も無視できない規模にまで進んでいて、アメリカの格差は社会に分断をもたらし、資本主義の根幹である自由と民主主義を脅かす水準にまで近づいてきている。これがピケティの主張の核です。そして、アメリカと同様のことが世界中で起きているのだ、と。ですから、この問題を中心に本書の1~3章で理論的にデータを示しつつ分析しました。 同様に日本の格差の問題にも言及していますが、この部分に関しては昨年刊行した『「日本型格差社会」からの脱却』(光文社新書)でより詳細に論じているんです。本当はこの問題も本書できちんと扱う予定でしたが、さすがにその内容まで盛りこむと、さらに分厚い本になって読者も手に取りにくいでしょうから(笑)、出版社と相談してこの部分だけ先に出版した、という経緯があります。ですから、本書と『「日本型格差社会」からの脱却』を姉妹本として合わせて読んでいただくと、より私の議論を理解いただけると思います。 世界の格差、日本の格差 岩田 では、本書で取りあげた格差問題について、長くなりますが少し丁寧に紹介していきたいと思います。まず本書で論じたのは前述の通り世界の、主にアメリカの格差に関しての議論が中心なのですが、先に結論から申し上げると、これはピケティの主張とも合致しますが、アメリカの税制度の問題、いきすぎた労働所得税のフラット化が原因のひとつです。 労働所得税のフラット化とは、税率の累進度を非常に小さくしてしまうことです。つまり、高所得者と低所得者の税率がほとんど変わらない。 アメリカの税率の歴史を振り返ってみると、70年代頃の労働所得税の最高税率は70%程度でした。ところが、レーガン政権時代にそれまでの税制に手を付けて、80年代の終盤には最高税率が20%後半で推移するようになっていました。もう一方の最低税率が15%程度の2段階しかない税制です。さらに、資本所得のうち譲渡所得税も10%にまで下げたので、高所得者と低所得者の税率がほとんど変わらない状態になっていたのですね。 わかりやすく言うと、最高税率を切り下げたことにより、従来、経営者をはじめとする高所得者は稼ぎの70%を税金に取られていたのが、80年代はその逆に稼ぎの70%くらいが手元に残るようになった、ということです。 では、アメリカはなぜ労働所得税をフラット化し、さらに資本所得税を下げる高所得者優遇の政策をとったのか。当時のアメリカは国全体で貯蓄が少ないことに悩んでいました。もともとアメリカという国は消費者も含めて貯蓄よりも借金が多い体質だったんです。 貯蓄とはみなさんが所得のうち消費に使わなかった部分です。貯蓄が増えればその分だけ企業の設備投資のための融資資金に回る、という仕組みですが、80年代初めの頃は、貯蓄よりも投資のほうが上回っていたため、投資のための資金が不足する状況でした。 これは、フェルドシュタインのようなサプライサイド経済学者らが当時さかんに主張していた議論ですが、アメリカの設備投資や研究開発部門が落ちこんでしまっているのは貯蓄が少ないからであり、貯蓄を増やすために高所得者の税率を下げるべきだ、と。加えて、労働所得税が低下すれば、今以上に労働者は勤勉になる、と彼らは言っていました。 このようなサプライサイド経済学者の意見を取り入れた結果どうなったかというと、むしろ貯蓄率はさらに下がってしまったんですね。また、労働生産性の向上も見られなかった。労働生産性に関して付言すると、たとえ70~80%の税率だったとしても、高所得者、それこそジェフ・ベゾスみたいな人は関係なく働いて稼いでしまう。 そんなアメリカの貯蓄率が上昇したのはリーマン・ショック後です。リーマン・ショックによって、アメリカ人もそれまでの消費しすぎを反省し、ようやく、消費を切り詰め、それまでの借金を返済するようになった、ということです。 以上のことから、アメリカの格差を縮小するために80年代に行った税制を改めて、労働所得税の場合、高所得者向けの税率の累進性を上げる必要がありますし、資本所得に関しても、低所得者と高所得者でほぼ同じ水準なのはどう考えてもおかしいわけですから、こちらも累進性を取りいれて補正していかなければならないと思います。 もうひとつ、格差の拡大に拍車をかけているスーパー経営者の存在も考えなければなりません。主に金融産業や、大手IT企業のトップなどがその代表ですが、この人たちが自分の経営者報酬を青天井に引きあげている問題があります。 それがあまりにも目に余るようなら、本来は株主総会を使ってそれに歯止めをかけることができます。この機能をコーポレート・ガバナンスといいます。なぜなら経営者が利益を牛耳ってしまうと、株主には配当がいかなくなりますからね。 ところが、スーパー経営者に対する株主によるコーポレート・ガバナンスがあまり効かなくなっている。どうしてかというと、株主の中心的存在が機関投資家だからで、ようするに経営者仲間同士が手を握って、お互いに黙認してしまっている状態だからです。 それに高所得者はタックスヘイブンを利用して租税回避行為に力を入れています。これを取り締まるには世界的な所得把握システムを構築しなければならないのですが、国際的な合意事項であり、当然タックスヘイブン国は反対するでしょうから、議論はなかなか先に進んでいません。 あるいは、GAFAが各国で法人税をほとんど払っていない問題もあって、これは利益を挙げた地域での売上高の10~20%のデジタル課税をかけよう、という議論をG7国中心で話しあっています。 ここまでが世界的に見られる格差の問題です。では日本の事情はというと、スーパー経営者による高額報酬や節税行動から生じたものではなく、一言でいえばデフレが原因です。 90年代以降、長期間デフレが続いていたために、その間、日本経済は成長しませんでした。景気が悪いから企業は利益を上げることができず、設備投資や雇用に消極的になり、ますます収益が減るという状況で、企業は人件費を削減しながら、なんとか生き残りを図ってきました。 デフレ以前に仕事に就いていた連合に所属するような大企業の社員とかなら、労働組合があるから年功序列の給料制は守られてきたのですが、そういった企業でも、デフレのため売上が伸びないから、今までのように新入社員は雇えなくなっていたんですね。この時期に正社員の雇用が大きく減少した根源的原因はデフレです。 正社員雇用を減らしたとはいえ、企業側も生産活動は続けなければならないから、今度は正規雇用ではなく非正規雇用、パートやアルバイトのような人を雇って人手をまかなうようになりました。非正規雇用の人たちというのは賃金のベースも低いし、労働組合に所属していないから簡単に解雇もできます。この非正規の人たちがデフレ期は景気の調整弁の役割を果たしてきたのです。 また、日本の雇用市場には転職市場がほとんどない、という特徴があります。だから、好景気のときの新卒社員は雇用環境に恵まれているので、比較的いい企業に就職してそのまま定年までいけることもあるから、そこまで大きな問題はないのですが、反対に不景気で就職氷河期のようなときに当たると非正規雇用にしかありつけず、少し景気が回復したところで簡単に転職もできないから、運が悪いと一生非正規社員のまま、ということになりかねない。 正規雇用と非正規雇用の生涯賃金の差はざっと1~2億円になります。億単位の開きが生まれるわけです。だから、日本の格差、あるいは格差縮小政策を考えるためには、まず原因がデフレにあることを理解し、適切な経済政策を取り、デフレからの脱却を図らなければなりません。 2012年以降のアベノミクスで行った量的緩和政策により、今は低成長ながらデフレからは抜け出し、雇用も正社員を含めて増えてきました。徐々に人手不足の状態になってきて、企業が賃金を上げないと人を雇うことができない水準に徐々に近づいてきています。 日本経済の話になったので、先に本書の10章で論じた財政の議論にも触れておきます。日本の場合は90年代以降、長期にわたって緊縮財政が続いてきました。これが日銀による金融政策の失敗と重なって、デフレに陥っていたわけで、日本経済がデフレから完全脱却のためには、量的緩和政策に加えて積極財政を行っていかなければいけない、という議論をこの章で行いました。 どうして積極財政も重要になるかと言うと、現在の量的緩和政策によるマイナス金利をこれ以上深堀りすると、銀行の利ざやがますます減り、今度は地域金融機関の破綻リスクをまねいてしまうことになるのです。だから、金融政策のスタンスは維持しながらも、やはり積極財政、たとえば公共投資を増やす、であるとか減税といった政策をやらなければいけない、ということです。 よく、積極財政を実施すると日本の借金がますます増えて日本財政が破綻する、といった話が出ます。この話をすると長くなりすぎるので、本書第10章を見ていただくとして、今回の対談では説明を割愛します。結論から言えば、今のところ財政破綻の心配はまったくありませんのでご安心ください。 ところが、皆さんもご承知の通り、安倍政権下で2度の消費増税を行ってしまったわけですね。基礎的財政収支を黒字化するという方針のもとで。これは明確な緊縮政策です。 アベノミクスの本来の目的が量的緩和と積極財政、そして規制緩和の3本の矢でデフレから完全脱却を目指し、経済を成長軌道に乗せるということでしたが、第2の矢がそれとは真逆の緊縮財政、つまり需要を減らす政策をやっていたわけです。金融政策で需要を増やして物価を押し上げようとしているのにも関わらず。 今頃になって、安倍さんが積極財政をと言っていますが、もっと前に実施してほしかった。話が前後になりましたが、ここまでが日本の格差問題を含めた経済状況です。 柿埜 岩田先生の格差問題の分析は、反資本主義の方々が主張しているような資本主義批判や、何でも規制緩和や利益至上主義、あるいは“新自由主義”のせいにする論調とはまったく違う議論だということが、今の解説からもわかると思います。 問題は資本主義そのものではなく、アメリカなら既存の税制、あるいはスーパー経営者の出現といった、資本主義の本来の機能がきちんと働いていないことで起きているのです。こうした問題は利益至上主義とか株主資本主義に原因があるわけではなく、むしろその反対だと言った方が遥かに正しいでしょう。 経営者自身がお手盛りで増やしてしまう超高額報酬問題は、岩田先生がおっしゃるように、本来、株主の権利が尊重され、コーポレート・ガバナンスが機能していれば防ぐことができる問題です。無意味な超高額報酬は株主に損害を与え、会社の利益を損なうのですから、そんな経営者は敵対的買収などで追い出されるはずです。それこそが資本主義が持つ内在的なメカニズムなのです。そのメカニズムの機能を阻害している人たちがいることで、経営者の暴走に歯止めをかけることができなくなっていることこそが問題なのです。 税制の問題も、市場メカニズムの構造的な要因ではなく、政府の再分配政策の失敗ですから、それをきちんと分析して修正することで、より良いものにする、そのための議論をしなければいけない、ということが本書の主旨だといえます。 また、日本の格差問題はアメリカや世界の問題とは異なる、岩田先生の本のタイトルにある「日本型格差」です。日本には富裕層はさほどいませんが、貧しい人はたくさんいる。これは長期のデフレによって生じた非正規雇用の増大や失業が原因です。労働市場の不合理な規制や年金に偏った不十分なセーフティーネットといった問題は元々あったのですが、問題が悪化したのは、日銀の政策ミスによって生じたデフレ不況のためです。日本型格差解消のためにまず必要なのはデフレから脱却し経済成長を取り戻すことです。 ですから、世界と日本の格差問題、このふたつを混同せずにきちんと切り分けて見ないと問題の解決には近づけない、ということです。 裁量からルールへ――これからの金融政策のあり方 岩田 続く4章から9章では、金融恐慌をともなった大不況の原因について論じました。この問題の世界標準の理解というのは、中央銀行が貨幣増加率の安定化を図っていくことが大事である、ということです。たとえば、アメリカのFRBみたいに金融政策を雇用と物価の安定に割り当てているようにです。 そうではなく、政策の方針を為替レートの安定に割り当てたり、あるいは金本位制やブレトンウッズ体制のような固定相場制を維持しようとすると、貨幣は非常に大きく変動してしまいます。 貨幣の変動が起きることで経済が不安定化してしまうことは、ミルトン・フリードマンによる1930年代の大恐慌やそれ以降のアメリカの経済史の研究から証明されています。これは過去の事象に限らず、2019年くらいまでデータを伸ばして検証してみても同じことが言えるのですね。 なお、20年以降の日本については新型コロナ対応の財政金融政策のために結果としてマネーは大きく増えていますが、これは感染対策の特別な措置でむしろ評価できます。 また、中央銀行が貨幣量を大きく増加させるとレバレッジが急上昇します。レバレッジとは自己資本に対する総資産の比率(総資産÷自己資本)のことです。 そのレバレッジが大きくなるということは、自己資本の何倍もの資産を買っている状態です。ようは借り入れが多くなって負債資本が大きくなっていることを指します。その負債資本を使って株式や土地を買う人が多くなることで、やがてバブルが生じる、というメカニズムです。 バブルが生じると、中央銀行はバブルを止めようと金融引き締めを行います。たとえば90年代の日本のバブルは円安になりすぎた為替相場を警戒した日銀が急激な金融引き締めを行いましたが、それによってバブルが崩壊し、レバレッジが急激に低下して、信用の収縮が起きました。 信用が収縮すると、金利が上昇し、それが高くなりすぎて、銀行は新規の貸し出しができなくなるし、借り手も借り入れを控えます。そうなると今までのような設備投資もできなくなる。そして成長率が低下して、経済全体が収縮し、デフレに陥る、という流れです。その結果、90年代以降の日本のように失業率が上昇し、物価の安定も保てなくなるのです。 信用の大きな収縮が起きるのは、中央銀行が裁量に基づいて金融政策を行っているからであり、それによって貨幣量が大きく変動して経済が不安定化する。その現象を的確に見抜いたのがフリードマンです。 ですから、フリードマンは中央銀行の裁量に任せず、ルールに基づいた金融政策を提案しました。それがマネタリー・ターゲット。為替レートではなく、あくまで貨幣量の増減を見ながら調整する金融政策です。その理論が時代を経て進化していき、現在は多くの国が採用しているインフレーション・ターゲット(インフレ・ターゲット)になりました。 インフレ・ターゲットでは、だいたい2~3%のインフレ率を目指す金融政策です。これを取り入れている国の貨幣量は総じて変動が小さくなっていて、非常に安定しているのがわかります。 つまり、金融政策を行う上では、インフレ・ターゲットのようなルールベースの政策を行うことが重要だ、ということです。中央銀行の裁量にまかせるとバブルが発生したときに無理やり潰してしまい、経済を不安定化させかねませんから。 また、バブルを未然に防ぐ方法として私はレバレッジ規制を提案しています。レバレッジ規制とは、東証やNYダウのような平均株価が上昇したら自動的にレバレッジを引き下げる。株価などの金融資産の上昇局面では自己資本の何倍までしか資産を買ってはいけません、と制限をかける政策です。 わかりやすい例でいえば、ここ数年アメリカの株価が急上昇しましたが、そういうときはレバレッジ規制が作用して、自動的に借り入れが抑制され、バブルを未然に食い止めることができる、という仕組みです。 現在もレバレッジが上昇しすぎたときの抑制策はありますが、政策の運用は日本では金融庁、アメリカではFRB中心の委員会がそれにあたります。ようは裁量任せのままなんです。 貨幣量はインフレ・ターゲットによって、中央銀行の裁量を取り外しましたが、金融システムの安定はまだ裁量によるところなので、いまだにここに自動安定化装置を組みこんでいないことに危機感を抱いています。アメリカだって、いつまたバブルが崩壊するかわかりませんから。 ですので、アメリカは今、金融政策の舵取りが非常に難しい局面に入っている状態なのだといえます。 柿埜 岩田先生は本書でフリードマンの先見の明を高く評価されていますが、以前フリードマン研究の本を出した私としては、変な言い方になりますがとてもうれしかったですね(笑)。岩田先生は本書内でインフレ目標の下でもマネーストックの安定こそが経済を安定させるために不可欠であることを明らかにされていますが、極めて重要なご指摘だと思います。マネーストックと物価の関係は長期的には安定していますし、過度なマネーストックの変動は経済の混乱を招きます。最近のアメリカも例外ではないでしょう。 岩田先生ご自身は、もともとはケインズ経済学を研究されていて、私のようなフリードマンに対する思い入れはないわけですが、実証的にデータに基づいて経済を研究し、政策提言を考えていけば、フリードマン的な結論にたどり着くのは極めて自然だと思います。 岩田先生が本書で指摘されているように、為替安定や地価の高騰に対処するためといった理由で物価の安定を軽視した金融政策が実施されると、例外なく経済危機が起きています。中央銀行の判断ミスは大抵、金融政策を物価安定ではなく為替安定のような間違った目標に割り当てて、貨幣の変動を軽視してしまうせいで起きています。 フリードマンは、1950年代に既に為替レートは変動相場制で自由に市場に決定させればよく、中央銀行は物価安定に集中すべきだという考えを持っていました。変動相場制は今でこそ常識ですが、当時は殆ど誰も理解できない異端的な主張でした。ユーロがいい例ですが、今も為替安定にこだわって金融政策で大失敗をやる例は後を絶ちません。 晩年のフリードマンは、アジア通貨危機や日本のバブル、EMS(欧州通貨制度)の危機といった経済危機はいずれも金融政策を為替安定に割り当てたせいで起きたというのに、中央銀行家はなぜ一向に学習しないのだろうかと嘆いています。 フリードマンというと、貨幣の成長率を一定にするk%ルールのイメージが強いですが、実は最晩年のフリードマンはインフレ目標を高く評価しています。インフレ目標の下で貨幣の成長率は穏やかで安定するようになったと指摘し、中央銀行は民営化できないとしても、インフレ目標はそれに近い責任を持たせる仕組みだと述べています。もっとも、そのうち中央銀行は慢心して変なことを始めるだろうから、この20年ほど(1980年代半ば以降2000年代初め)のような黄金時代はまず続かないだろう、とも言っていますが(笑)。 フリードマンは、一貫して裁量的な金融政策の欠陥を厳しく指摘してきたわけですが、インフレ目標は中央銀行に明確な目標を与え説明責任を負わせるという点で、ルール重視のフリードマンの政策提言を発展させたものです。実際には岩田先生が本書でも指摘されているように、フリードマンはインフレ目標に近いアイディアを早くから考えていたのです。 フリードマンはレバレッジ規制まではさすがに考えていませんでしたが、ルール重視という点で、レバレッジ規制も同じ発想ですよね。現在の金融政策はルールに基づいて運用しなければならない、という考えが基本になっているにもかかわらず、金融規制はいまだに“賢い”政策担当者に一任してバブル退治をする、という話になっている。 ところが、その政策担当者はバブルになったら、金融産業のスーパー経営者らと一緒になって浮かれてしまうものです。新時代の到来だ、なんだと言って(笑)。ですから、実際バブルが起こったときこそ裁量的な“賢い”対応なんて期待できません。だからこそ、金融規制も同様にルールベースで行うのは必須の課題です。 かつて、フリードマンは共産主義全盛の時代に市場経済の意義を説き、市場経済がうまく機能するための経済政策の枠組みを提案した『資本主義と自由』という本を著しました。本書は、フリードマンの時代にはなかった現代の新たな課題に対応してバージョンアップした、現代版の『資本主義と自由』と言っていいと思います。 フリードマンの格差是正プラン 柿埜 もうひとつ、フリードマンのアイディアでいえば、岩田先生は本書内で教育バウチャー(利用券)の議論を1~3章の格差問題における是正策のひとつとして取り上げています。 岩田 教育バウチャーとは初等・中等教育年齢層の子どもに、政府が授業料をまかなうための一定額の教育利用券を配布する制度ですね。これを公立校でも私立校でも使えるようにする。 柿埜 教育バウチャー制度を導入すれば、消費者、つまり教育を受ける子どもたち、あるいはその親は自由に好きな学校を選択することができるようになります。そうなると、たとえば不登校の子どもたちを専門に扱う学校や、職業訓練に力を入れる学校など、子どもたちのニーズに合わせた学校が出てくるようになる。つまり、この制度は消費者の権利を守ることにつながるのです。 岩田 今、柿埜さんが言ったような不登校や障碍者の子どものための学校などは、すでに民間レベルでも結構あるわけですが、今の教育制度では既存の学校のように国からのお金がなかなか回ってこないのが実状です。だから、ボランティアや寄付に頼らざるを得ない部分が大きいのですが、国からのお金が学校ではなく、子どもたちに直接行き渡るようになると、そこに進学した生徒の数に応じて、運営資金も自然に回るようになるのです。 ところが、今の教育現場の人たちは教育バウチャーに反対する人が多くいて、決まって教育を市場原理主義で考えるな、と言ってくる。 柿埜 教育バウチャーをやると受験校に人が集中して、人間教育的なものがおろそかになる、という言い分ですよね。でも、この主張って消費者のことをものすごく馬鹿にしていると思いませんか。これは消費者自身が子どもをどう教育すればよいかわかっていないと決めつけて、教育の“専門家”である自分たちが教えてやろう、という上から目線の態度です。自動車メーカーは、「消費者に任せるとスピードが速い車ばかりになってしまい、デザインが軽視される。専門家である我々が、消費者の買う車を決めるべきだ」なんて言わないですよね。話が教育になると、何故こんな主張がまかり通るのか不思議です。 こうした主張は教育現場における既得権益を代弁するものに過ぎません。そもそも今の教育がそんな素晴らしい人間教育を提供しているのでしょうか。市場を活用することで消費者の選択肢を広げることができる教育バウチャーよりも、現在の教育体制のほうが弱者に冷たい仕組みです。 岩田 文科省が定めている学習指導要領には、子どもたちに教えなければいけない要項が事細かに定められているのですが、そんな複雑なものにせず、自由民主主義という普遍的な価値を共有することが前提である、という基本だけ押さえておけばいいんですよ。そのほかの細かい方針は各校に委ねればよい。 そして、この前提を満たしている学校にのみ教育バウチャーを適用できるようにする。間違っても自由民主主義に反するカルト教団や全体主義を信奉するような学校を国の税金でまかなってはいけない。 教育バウチャーによって消費者が自由に選べる環境を用意すれば、ニーズに合わせていろいろな教育方針の学校が出てくるようになる。本当の意味での多様性が生まれるのです。 一方で、今ある学校の中には淘汰されるようなところも当然出てくるわけですから、それを市場原理主義だとレッテル貼りをしながら必死になって導入を阻止しようとしている人たちも多くいるので、けしからんかぎりですね。 柿埜 左派はフリードマンのことを弱者切り捨ての“市場原理主義者”だとレッテルを張りますが、当のフリードマンは教育バウチャーや、これも本書で扱われている負の所得税といった弱者保護の政策を提案しているんですよ。 岩田 日本の左派系野党が最近政党公約に給付付き税額控除を盛りこみました。この「給付付き」の部分が、フリードマンの言うところの負の所得税に当たります。 柿埜 あるいは、ベーシック・インカムという言葉を使っていますよね。何故かベーシック・インカム提唱者の中には、ベーシック・インカムと負の所得税とは異なるものだと誤解している方が少なくないのですが、おかしな話です。所得分配上の効果は全く同じです。 岩田 日本の“リベラル”の人はフリードマンが嫌いで、悪の権化のように見ている。だから、本来は給付付き税額控除やベーシック・インカムなんて口が裂けても言ってはいけないんですけどね。ところが右も左も揃ってベーシック・インカムを掲げている始末で。ベーシック・インカムの基礎がフリードマン案だと知ったら、これ以上は言わなくなるのでしょうかね。 柿埜 岩田先生も本書で指摘されている点ですが、「フリードマンが言ったことだから反対」とか「新自由主義だから反対」といった幼稚な議論はいいかげんやめるべきですよね。 誰が既得権益を守っているのか 岩田 日本の既得権益の問題というのは教育に限った話ではなく、産業面においてもたとえば農業従事者のことを弱者だと認知して、その産業構造を保護しているのが現状です。農業の規制には、例えば、株式会社が農地を所有して農業をすることできなくしている、といった参入規制があります。 参入規制は他の業種でもありますが、医療や介護、保育といった分野が特に顕著です。それを岩盤規制といって、安倍元総理はアベノミクス第3の矢の規制緩和政策で是正しようとしたのですが、目立った成果をあげることはできませんでした。 付言しておきますが、規制緩和政策をデフレ下の不況時に行ってしまうと、雇用が余計に減ってしまうことになりかねないので、かえって危ないんですね。ところが、アベノミクス第1の矢の大規模な金融緩和でデフレは脱却しつつありましたので、これからは規制緩和も積極的に進めて、企業間競争を活性化させなければならない状況です。 企業間競争が活発になれば、企業は生き残るために自発的に労働生産性を高める努力をするようになります。そのためには、未だにアナログの行政がITやDXを推進して、中小企業でもグローバルマーケットに参入できるような商品をどんどん作ってもらって、国は売れる環境を整備する、と。そうして労働生産性が高まっていくと、やがて実質賃金は上がっていくのです。 柿埜 教育や農業、福祉分野等は特にそうですが、多かれ少なかれ、どの業界でも市場に任せてはいけないという主張がはびこっています。規制が新規参入を阻害し、消費者の利益を損なっているから、それを是正しましょう、市場を敵視するのではなく活用していきましょう、という話をしているだけなんですが、そういうことを言うと、すぐに“新自由主義”だ、市場原理主義だとレッテルを貼って、思考停止に陥ってしまう。こういった批判は既得権保護の隠れ蓑に過ぎないことが殆どです。 岩田 それは今の岸田政権にも当てはまるね。 柿埜 そうですね。アメリカの州ごとの規制と格差の関係をみると、規制が多い州ほど格差はむしろ大きいんです。([註1])国際比較でみても参入規制の多い国や地域ほど、むしろ格差が大きい。規制産業が巨大化した国の格差が大きくなるのは自明のことです。中国やロシアのような社会主義的な権威主義国家では、格差が極めて大きいだけでなく、富裕層の多くは政府とのコネで富を手に入れた国営企業の経営者や政治家です。 日本の現政権が“新しい資本主義”という名のもとでやろうとしている古い社会主義のような、国が一方的に弱者だとレッテルを貼った生産者、企業に補助金を配る、集団主義的な再分配政策を実行していくと、余計に既得権益が保護されて、格差が固定化される、という流れは今後加速していくでしょうね。 むしろ、低所得者層に対する所得分配政策は、直接消費者が受け取ることができ、自らが用途を選択できる、負の所得税や教育バウチャーといった、個人ベースの再分配政策に変えていくべきです。これは日本に限らず、世界のほかの国でも多かれ少なかれ抱えている問題ですから、積極的に議論をしていかなければならないですね。 岩田 日本で言えば、農産物の需要が国際的に増えているので、農業は輸出産業としても有望ですし、国内に目を向けても介護や保育の需要が高まっています。まさにこれからの日本を担う成長産業なのですが、いかんせんそういった産業にこそものすごく規制がかかっている。 この規制は業界団体、政治家、官僚による「鉄の三角形」の構造で、お互いに利権を補完する形でガッチリ組んでいます。最近ではここに大手メディアを加えた新しい構造になっているようですが、新規参入を排除して、その産業内での競争を阻害して、特定の企業が莫大な利益を得ている。その既得権益を守ることに、国の運営を担うような立場の人たちが精を出してしまっていて、日本全体のことを何も考えていません。 競争を否定して弱者保護の名目で特定の産業に補助金をまく。何も努力せずに補助金が受け取れるなら、企業は生産性を上げる必要もない。産業自体が補助金漬けの構造のままだと、このような補助金目当ての生産性が低い企業がいつまでたってものさばってしまうんです。この点が保護政策の一番の問題ですね。 [註1] 例えば、Chambers, D., and O'Reilly, C. (2021)“Regulation and income inequality in the United States,”European Journal of Political Economy, 102101. 脱成長の誤謬 柿埜 日本の“リベラル”、あるいは“新自由主義”批判者は、弱者保護に熱心なように見えて、実際のところは既得権益を保護するための活動に勤しんでいるだけ、ということですね。日本の大手メディアの報道を見ていても、新規参入する側の企業が利権を得ているように報じて、もともとある既得権益を無視しています。「行政が歪められた」とかなんとか言って、規制によって犠牲になっている消費者の利益には無関心です。 批判の矛先がまったく逆のあべこべの状態ですし、経済学の初歩を理解していないから、きちんとした議論にもならない。 岩田 “新自由主義”っていうワードが、もはや水戸黄門の印籠のようなものになっちゃっていますしね。そもそも、何をもってして“新自由主義”なのか、ということなのですが、私は経済的観点からふたつの意味合いを考えています。 ひとつは、今のアメリカのように税金のフラット化を進める政策を指した新自由主義、もうひとつは、規制改革を進める政策を指した新自由主義。どちらかというと後者の方が新自由主義の話で引き合いに上がることが多いのですが、私はもう少しきちんと税制を是正する議論を進めたほうがいいという立場ですから、柿埜さんよりは左寄りです(笑)。 柿埜 そうですね(笑)。私はどちらかというと、資本主義を機能不全にさせている規制をなくし、経済成長させなければだめだ、という議論に重点を置いています。格差の問題も、私は参入規制や特定産業への利益誘導など政府の失敗が大きいと考えます。ですが、もちろん、ご指摘のような税制の問題も無視していいとは思っていません。 ともあれ、再分配政策をどう考えるにせよ、弱者の福祉を考えれば経済成長が不可欠であることは明らかです。経済成長しないことには、やがて年金も社会保障も破綻してしまいます。社会が貧しくなれば一番苦しむのは弱者です。にもかかわらず、なぜこんなに脱成長論が幅をきかせているのか。それは、おそらく脱成長はゆっくり歩くイメージで、成長はせわしなく歩くイメージだからなのでしょう。のんびり歩く方が楽でいいと思っているのですね。 岩田 日本の90年代こそ脱成長だったんですよ。では、この時代はゆっくり歩きながら前進していたかというと、前に進むどころかむしろ逆走していたわけで。 柿埜 実際の脱成長は苦しいものですよね。そもそも、早く歩くとかゆっくり歩くという比喩自体が誤りなのです。根本的な問題は、各人が思い思いの目標を追求できる自由な社会を選ぶか、脱成長のために特定の生活様式が強制される全体主義社会を選ぶかです。たとえて言えば、個々人が自分の好きな速さで歩き、好きな場所に行ける自由な社会がいいか、全員が同じ場所に向かって同じ歩調で歩くのを強制され、違反したら厳罰に処される軍隊のような社会がいいか、ということです。 資本主義の下では、最先端の製品を使わずに暮らしたいならそうすることは誰にも禁じられていません。ゆっくり歩きたい人はゆっくり歩けばいいし、せわしなく活動していたい人はそうすればいい。他人を侵害しない限り何でも認めるのが市場経済です。実際は、大多数の人は貧しい生活を望みませんから、変な妨害がなければ、経済は勝手に成長していきます。経済成長は人々の自由な選択の極めて自然な結果です。 反対に、脱成長にしたいなら、人間の自然な活動を無理やり抑え込む必要があります。実際、脱成長論者は飛行機に乗るな、広告を規制しろとか、とにかく生活を事細かに統制しようとしていますよね。脱成長社会というのは、コロナ禍で行われた統制以上のさらに強烈な行動制限をイメージしてもらえればわかりやすい。それはものすごく貧しい、画一化された暮らしを強制する暗黒社会でしかないのです。 私は単にその動きに反対しているだけなのですが、日本の“リベラル”の人たちは脱成長コミュニズム社会のことを、気楽な隠居暮らしだと錯覚していて、その中でみんながゆっくり楽しく暮らすことができるハッピーな世界だという幻想を抱いているんです。 脱成長論は、岩田先生が本書で批判している「人間の本性を変える」発想の全体主義です。今までのあなたの生き方は間違っているから、こうすれば真の幸せが手に入ります、といった人びとの感情に訴えかける人生哲学を押しつけです。個人の趣味の問題として清貧の生活を送りたいならそれは勝手ですが、脱成長論者は自分たちの選択を全員に強制して当然だと思っている。 でも、その先には自由も多様性もない社会しか訪れない、ということを全く理解していません。 岩田 どうしてこうなってしまっているかというと、日本の大学では、経済学の基本中の基本である価格がどう決まるかが説明できないマルクス経済学がいまだに教えられているからでしょうね。マルクス経済学がこれほど生き残っている国は先進国ではありませんよ。 それもこれも原因は、大学という競争原理が働かない閉鎖社会にあるからなのですが。ある先生がマルクス経済学の講座を持っている、と。すると今度はその先生の弟子筋が教えを継承してまたマルクスを教える。その流れが連綿と続いて、今に至っているから、いつまでたってもマルクス主義が大学からなくならない、という構造なんです。 一般的な経済学で教えているモノの価格の説明は、消費者側がその商品に対してどれだけ満足と効用が得られるかに応じて、生産者側が価格を上下させ、そこが一致した点が価格になる、という需要と供給の均衡の話です。 ところが、マルクスに言わせると、商品の価格というのは、その商品を生産する上でどれだけ労働時間が費やされたかどうかだ、と。 たとえば、Aの商品は1ヶ月で作られ、Bの商品が1年かけて作られたとしましょう。マルクスの理論に従うと労働時間の見合いでBの商品の価格のほうが必ず高くなります。ところが、現実にはAの商品の方が高いとなると、その時点でマルクスは首をかしげざるを得ないんですね。 柿埜 今、岩田先生がおっしゃったようにマルクス的な発想で商品を評価しても、現実の価格は説明できません。そこで、マルクス主義者は、労働には質の違いがあり、Aを作るのに必要な労働はBを作るのに必要な労働の10倍の労働価値があるのだという。 しかし、Aの労働がBの労働の何倍の労働価値があるのか一体どうやったらわかるのかというと、市場で実際の商品価格を見るまでは判断のしようがない。商品価格を説明するはずの労働価値自体が、商品価格を見なければわからないというのですから、こんな議論は破綻しています。労働価値説の他の問題点は長くなるのでいちいち触れませんが、他の生産要素を無視して労働だけが価値を生むというマルクスのドグマの矛盾はベーム=バヴェルクという経済学者が既に1890年代に徹底的に論破しています。 マルクス経済学は価格を説明できないだけでなく、サービス産業についても正しく理解していません。マルクスによれば、サービスはモノに体化されていないから価値を産まないのです。 昔のソ連を中心とした社会主義圏ではマルクスの思想に基づいてMPS(Material Product System)、物的生産体系という国民経済計算にあたるシステムを使っていたのですが、MPSではサービス産業は完全に無視されていました。 今の日本の経済の7割はサービス産業ですし、先進国の経済はとっくの昔にサービス産業中心になっています。サービスに価値を認めないマルクスの発想では現代の経済は全く理解不可能です。 岩田 だったら、マルクスも自分の価値を説明できませんね。なぜなら、本というのはそのモノ自体に価値があるのではなくて、そこに記された情報に価値があるわけであって。情報とはまさにサービスそのものです。だから、マルクスは自分で自分の本に価値がないと言っているに等しい。 柿埜 ところが、マルクス本人は自分の本には大変な価値があると考えていました。自分に都合のいい学説を考える才能はあったようですね(笑)。 結局、マルクス経済学は古色蒼然たる過去の学説に過ぎません。マルクス主義が今日も生き残っているのは科学的仮説としてではなく、単にイデオロギーとして訴える力があるからでしょう。要するに、「人間の本性を変える」べきだと説いているだけですから、それでは世俗の新興宗教を作って教えを説いていると同じです。 岩田 ところが、みんなつい宗教に頼りたくなってしまう。 柿埜 でも、そんな話に終始しているだけでは、実際の社会問題をなにも解決もできません。ドラマティックに人間性を変えようとする宗教的な主張は一見魅力的ですが、無理やり人間の本性を変えようとする社会は必ず不寛容な全体主義社会を招くことになります。だから、岩田先生も私も「ゲームのルール」を是正すべきだと言っているわけです。 「見えざる手」を修正する 柿埜 今の脱成長やマルクスブームと、2000年代初めに流行した構造改革主義は一見対極にありますが、実は似ている点があります。どちらもゲームのルールを変えることではなく、「人間の本性を変える」反経済学という点では似たもの同士です。日本ではなぜか国際的には標準的な経済理論であるリフレ派の主張は人気がありません。 リフレ派というのは、日本で長年にわたって続くデフレという「ゲームのルール」をマクロ経済政策によって変えて、経済を活性化させようという考え方です。 これに対して、構造改革主義者は、日本経済の停滞は、従来の日本的経営が間違っているせいだ、経営者が無能だからだといいます。日本経済復活のためには、「小手先の」マクロ経済政策は有害で、大事なのはイノベーションを起こすことだという。そのためには、IT化が大事だとか年功序列を廃止せよとか、あれこれと経営者に注文をつけています。日本人の価値観を大転換するべきだというようなもっと大きな話をする人もいます。 イノベーションは大切ですが、だからといってマクロ経済政策を無視していいわけはありません。経営者は自分が直面している環境の下で、それなりに合理的な判断をして経営しているはずです。イノベーションを妨げる規制があるなら、その撤廃を主張するのはもっともですが、経営者にあれこれ指図したり、まして日本人の価値観がどうのと議論したりするのは経済学者の仕事ではありません。そんな悟りを開くような大げさなことをしなくても、デフレでない他の国は普通に成長できています。構造改革主義者がご自分のお気に入りのビジネスモデルを経営者に売り込むのは自由ですが、それは経済学者ではなく経営コンサルタントの仕事でしょう。 岩田 それを実際に会社経営したことがない経済学者がやっちゃっている。 柿埜 そんなに素晴らしいビジネスモデルをご存じなら、ご自分が経営者になってはどうですかと言いたいですね。素人が経営者に経営の仕方をお説教するのはおかしな話です。 ところが、こういった話も自分は何をすべきか、といった人生哲学的な部分があって、変に主体性に訴えかけてくるところがあるから、人の心をうつのでしょう。 岩田 繰り返しになりますが、経営者がイノベーションに勤しんで、日々成長を実感できる企業を作るためには、まずその国の経済環境が安定的でなければいけないんです。これまでは日本の経営者が概して無能だから成長できなかったのではなく、デフレ下で経済環境が悪すぎたからそれができない状況だった、という前提を理解しないといけません。 経済の安定的な成長局面というのは、2%くらいのインフレ率で、かつ完全雇用も達成した状況です。さらに、規制改革も行って余計な既得権益を取り除く。そうすれば企業のイノベーションは自然に起きますし、人手も足りない状況だから、やがて実質賃金も上昇してくる。 そのための仕事をするのが政府と日銀の本来の役割なんです。ところが政府はその逆の規制を強化することに一生懸命になっている。その問題をなんとかしなければいけないから、みんなで声をあげていこうと言っているだけなのに、新自由主義が駄目だ、市場原理主義はけしからん、みたいな話ばかりで、そんなバカなことを言っている暇なんてないんです。 そもそも、市場にすべてを委ねろ、なんて国際的なスタンダードの経済学の現場では誰も言っていません。 アダム・スミスは「見えざる手」で何を言っていたか。みなが利益を追求していけば、やがて公益になる。これが市場の機能の本質なんです。そして「見えざる手」が正しく働くためには市場が常に競争的でなければならない。ところが、現実の市場のなかにはそのまま放置するとその機能を阻害するものが出てくる。それが「市場の失敗」と呼ばれるもので、これはいかなる経済活動にも付いてまわるものなのですね。 たとえば環境問題では現在「見えざる手」が正しく機能していません。そもそも、地球環境が悪化したことで生じるデメリットは現在世代よりも将来世代が被るので、本来は将来世代に対するリスクを負担し、取引する市場を用意する必要がありますが、それがない状態です。つまり、気候変動のリスクに応分の価格が付いていない、ということです。 この問題を解消するアイディアが、再三申しあげている炭素税です。あるいは排出権取引もそう。これらのプランを導入して環境問題に関する「見えざる手」を是正する、というのが現在の経済学における最適解ということです。 柿埜 フリードマンも環境問題については、汚染物質への課税が望ましいと説いています。これは温暖化問題に当てはめれば炭素税です。外部性による経済的損失を課税で補填する、というアイディア自体は古くからあります。フリードマンも、環境問題は未知の問題ではなく、経済学の長い伝統が既に答えを出している問題だと指摘しています。 岩田 金融市場に対して自動的なレバレッジ規制をかける、という発想も金融市場における「見えざる手」の修正という意味合いです。アダム・スミスが予見できなかった現在の膨張する信用経済を適切に是正し、正しく機能してあげるようにしなければリーマン・ショックのようなことが再び起きかねません。 このように、手を加えてあげなければいけない仕組みはいくらでもあるわけです。今、何が機能不全を起こしていて、いかに手を施せば正しい機能を取り戻すか、ということを議論しているだけであって、これのどこがなんでもかんでも市場任せにすればいい、という話につながるのか、まったくわかりませんね。 本物のリベラル的思考とは 柿埜 今日の対談の中で我々が一貫して申しあげているのは、市場原理主義批判などの反資本主義的主張は経済学に基づく議論ではなく、弱者を救うこともない、ということです。この点は、新自由主義を声高に批判する人が実際の弱者に対してどんな態度をとっているかを見れば一目瞭然です。 例えば、現在のマドゥロ政権下のベネズエラは社会主義化を進めた結果、経済が破綻し、国民の2割が国外に脱出し、国内に残っている3割は餓死しかかっている、恐ろしい独裁国家です。 こんな悲惨な有様を見て、アメリカはマドゥロ大統領に制裁を加えたのですが、あろうことか日本の著名な“リベラル”の知識人がマドゥロ擁護の声明を出しました。([註2])新自由主義に抵抗するマドゥロ大統領は立派な民主主義のリーダーというのですから呆れてしまいます。マドゥロ大統領を批判する野党指導者のグアイドは社会主義政党の人で、オバマ大統領を真似たフレーズを叫んだりしている穏健左派の政治家なのですが。気に入らない者には何でも新自由主義というレッテルを張れば済むと思っている。抽象的にもっともらしい理想を唱えながら、現実の人権侵害には無関心なんですよね。 ロシアのウクライナ侵攻にしても同じことが言えます。反新自由主義の知識人、あるいは社民党([註3])やれいわ新撰組([註4])のような“リベラル”政党は明らかにロシア政府寄りです。ロシアの侵攻直前、「論座」には「ロシアのウクライナ侵攻はディスインフォメーション」([註5])だという反米陰謀論さえ掲載されていました。さすがに戦争が始まるとロシア政府を支持する人は減りましたが、戦争の原因はNATOの東方拡大で、ウクライナがロシアを“挑発”したのも悪いという人が少なくない。『今こそ社会主義』(池上彰氏との共著)等の著書がある的場昭弘氏は、ウクライナは親露派占領地域の独立を承認し、ロシアと連邦制を検討せよと唱えていますが、([註6])これはプーチン大統領の主張とあまり違わないのではないでしょうか。 東欧諸国がロシアから離反してNATOに入りたがるのは、ロシアが魅力の乏しい独裁国家だからです。領土を侵略し、“西方拡大”してきたロシアにウクライナの人々が恐怖を感じるのは当然でしょう。民主的に選ばれた政権がNATO加盟を望むのに、それはロシアの安全保障上の脅威だからダメだ、ウクライナは中立化しろと勝手に決めるのは帝国主義です。ロシアの帝国主義を正当化する人たちが弱者の味方を気取っても空しいだけでしょう。 彼らは、ソ連の原爆は平和を守るよい原爆、アメリカの原爆は戦争に使われる悪い原爆だ、と言ってアメリカを非難していた時代から何も進歩していません。日本で“リベラル”を称する人たちのイデオロギーは「左」ではなく、むしろ「東」といった方が正しいのかもしれません(笑)。 ちなみに、ロシア政府は、しばしば自分の気に食わない相手に“新自由主義”というレッテルを張っています。([註7])“新自由主義”に条件反射的に反対する“リベラル”を利用しようとしているのでしょうね。 岩田 本書の帯に「本物のリベラル」と書いてありますが、実際は私や柿埜さんのような人間が本当のリベラルなんです。 柿埜 同様のことがフリードマン、またはケインズにも言えますよね。一般的にケインズとフリードマンは対極にあるような言われ方をされますが、それこそ日本のようなデフレ経済に陥ったときの処方箋は同じです。これは、岩田先生が本書で論じられた通りですね。 岩田先生は、ケインズとフリードマンの対比を書かれた中で、ケインズのエリート主義的な認識を指摘していますが、その部分は私も危ないと思います。ですが、ふたりとも人間本性の変革を目的としていたわけではないし、あくまで経済学の理論に基づいて、目の前の社会問題を解決するためにどのようにゲームのルールを変えればよいか、ということを思考していた人たちです。 多様性と人権を守る唯一のものが資本主義であり,自由で民主的な個人主義こそ社会の進歩をもたらすと考えていた。これこそが本当の意味でのリベラルです。フリードマン自身もそのことを自覚した上で、自らをリベラルだと言っていましたから。 自称“リベラル”の人たちが、本来のリベラルとは対極の主張をしているのは、別に日本に限った話ではありませんが、日本の場合はこの認識が一般に広く浸透してしまっているために、余計にひっくり返った状況です。日本に本物のリベラルがほとんどいない現状は、本当に嘆かわしいですよね。 岩田 だからこそ、一人でも多くの人に本書を読んで本物のリベラルとは何かを知ってほしいですね。(おわり) [註2]ベネズエラ情勢に関する有識者の緊急声明~国際社会に主権と国際規範の尊重を求める | 長周新聞 (chosyu-journal.jp) [註3]ウクライナを戦場にするな~米ロ両国は冷静な対話で緊張緩和を~ - 社民党 SDP Japan (archive.org) [註4]【声明】ロシアによるウクライナ侵略を非難する決議について(れいわ新選組 2022年2月28日) | れいわ新選組 (reiwa-shinsengumi.com) [註5]「ロシアのウクライナ侵攻」はディスインフォメーション:真相を掘り起こす - 塩原俊彦|論座 - 朝日新聞社の言論サイト (asahi.com) [註6]ロシアとウクライナが「こじれた」複雑すぎる経緯 | ウクライナ侵攻、危機の本質 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net) [註7]The Kremlin’s New Favourite Straw Man - EU vs DISINFORMATION ★いわた・きくお=上智大学名誉教授・学習院大学名誉教授。金融論・都市経済学。2013年4月から5年間、日本銀行副総裁を務める。著書に『経済学的思考のすすめ』、『日銀日記』、『なぜデフレを放置してはいけないか』、『「日本型格差社会」からの脱却』など多数。1942年生まれ。 ★かきの・しんご=高崎経済大学非常勤講師。学習院大学大学院経済学研究科修士課程修了。主な論文に「バーリンの自由論」「戦間期英国の不況に関する論争史」など。著書に『ミルトン・フリードマンの日本経済論』、『自由と成長の経済学』がある。1987年生まれ。