五〇年にわたる研究の集大成 鵜澤和彦 / 法政大学大学院兼任講師・哲学週刊読書人2022年1月14日号 カントと自己実現 人間讃歌とそのゆくえ著 者:渋谷治美出版社:花伝社ISBN13:978-4-7634-0984-3 長年、カント研究の第一線で活躍されてきた著者が、五〇年にわたる研究の集大成として上梓した著書である。本書は、共著並びに国内外の学会誌や紀要に発表された十本の研究論文と、最新の二本の書き下ろし論文を収録し、著者のカント研究を学ぶには、大変ありがたい論文集となっている。本書のねらいは、表題が示しているように、カント哲学全体を「自己実現論」という視角から把握することである。その際、副題の「人間讃歌とそのゆくえ」は、カントのヒューマニズムの精神と価値ニヒリズムを意味し、本書全体を貫く問題提起とされている。著者は、テキストの周到な読解に基づいて、カントを近代ニヒリズムの先駆者として位置づけ、この地点から独自のカント解釈を展開する。自己実現とヒューマニズムをコインの表側とするならば、価値ニヒリズムはその裏側に例えられる。そして、前者は、後者の「受容」及び「回避」として立ち現れてくる。著者がこの論点に注目するのは、いずれ全てが無に帰すること(価値ニヒリズム)が分かっていても、あえて理念を抱いて考え続ける、というカントの「思考態度」が、手すりなき時代にわれわれの生き方の指針となるからである。この態度は、脚注に書かれてあるように、パスカルの考える葦としての人間像と重なっている。 第一部「認識存在論」では、観念論論駁及びB版演繹論第二四節における自己認識の問題(内官のパラドックス)が論じられる。純粋統覚(コギト、叡知体)は、考える働きとして存在するため、自分自身を対象として直観することもできないし、したがって、時間規定の基体となる「何か持続的なもの」(実体)を見いだすこともできない。ここから、著者は二つの論点を導き出している。第一に、純粋統覚は、時間規定の基体となる持続的なものを外界の対象に宛がうのであるが、著者は、この統覚の働きを「人間主観の根源的自己対象化的性格」の自由、すなわち「自己実現」と規定している。第二に、純粋統覚は、常に外界の対象の諸表象を引き合いに出す限り、自己疎外の祖型、不自由でみすぼらしいものでしかない、とも捉えられている。この後者の論点は、人間存在の根源的な有限性を言い表している。 第二部「実践価値論」では、理論理性に対する実践理性の優位と、最高善、諸目的の国(叡知界)の思想が、カントの価値論として展開される。ここでは、人間の自由が開花しており、その意味で人格の連帯と共同が想定された、実践的領域での自己実現が考えられている。しかし、他面、厳格なカントの倫理思想は、やはり理念にすぎないことから、全体が瓦解する「無の深淵」すなわち、価値ニヒリズムが潜んでいるとされる。価値ニヒリズムからの唯一の脱出口は、人間の持つ道徳的理念の能力としての純粋実践理性への信頼しかなかったと述べられる。また、カントは、人格間の親密な交わりや信頼といったことも、そもそも諦めているふしがあるとされている。カントは、難敵であるスピノザの自由ニヒリズム(自由は存在しない)や価値ニヒリズムの深淵を回避する切り札として、叡知的な自由にすべてを賭けるしかなかったとされる。 第三部「カントの真意を読む」では、フリードリヒ大王賛美の真意、宗教論、学問論、人間学が論じられる。ここでは、著者はカントの「二枚舌」(本音と建て前)について、微に入り細を穿つ説明を行っている。著者は、シェイクスピアの戯曲研究、ニヒリズム研究のほか、岩波版カント全集の『実用的見地における人間学』の翻訳を手掛けてこられたが、この第三部では、文学や人間学に関する著者の豊富な知見と力量が、いかんなく発揮されている。時に軽妙洒脱なユーモアに富み、時に辛辣な皮肉を述べるカントの姿が、生き生きと描き出されている。(うざわ・かずひこ=法政大学大学院兼任講師・哲学)★しぶや・はるよし=埼玉大学名誉教授・カント思想・総合人間学。東京大学大学院博士課程満期退学。著書に『新版 逆説のニヒリズム』『リア王と疎外』など。訳書にカント『実用的見地における人間学』など。一九四八年生。