――容赦ない人生のなか家族がおたがいを守り、傷つけ合う姿――加藤有佳織 / 慶應義塾大学文学部助教・北米文学週刊読書人2020年7月17日号(3348号)歌え、葬られぬ者たちよ、歌え著 者:ジェスミン・ウォード出版社:作品社ISBN13:978-4-86182-803-4『ミシシッピ文学史』(ミシシッピ大学出版、二〇一七年)序章において編者は、ミシシッピの地は人種差別の根深い「悪しき南部」ひいてはアメリカの提喩となる一方で、その姿について語ろうとする作家たちによる「もっとも豊かな文学史」を持つと述べる。ジェスミン・ウォードもまたその伝統を引き受け、彼女が生きるミシシッピと、そこに透けて重なるアメリカを描いてきた。 長篇第二作『骨を引き上げろ』に関する『パリ・レビュー』のインタビューで、ウォードはこう語った。執筆をとおして「分かったのは、自分が生きる土地について書くなら、語りに情け容赦はいらないということ。(中略)人生は手加減などしないのだから」(二〇一一年八月三〇日)。 この緊迫した覚悟は、ノンフィクション『私たちが刈り取った男たち』(二〇一三年)、アンソロジー『今が火だ』(二〇一六年)を経て、『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』にも充ちている。第11章、リッチーという大人になれなかった少年が吐き出す言葉「あいつが話したいかどうかの問題じゃない。おれにとって必要なんだ」が作品全体に反響する。 本作は、ボア・ソバージュというミシシッピの架空の町に暮らす家族の物語である。十三歳のジョジョ、彼の母レオニ、そして祖父リヴァーの友人であったリッチー。彼ら三人の語りをウォードは見事に書き分け、容赦ない人生のなか家族がおたがいを守り、傷つけ合う姿を浮き彫りにする。 読者は、守りたいと切実に願っているのにそうできない苦さに何度も立ち会うことになる。ハグがあれば何かが違っていたかもしれないと思わせる場面にも出会う。たとえばリヴァーは十五歳の頃パーチマン刑務所で十二歳のリッチーと出会い、荒い世界のなか彼を守ろうとする。あるいはレオニは、兄ギヴンが亡くなったときに心細くとも両親リヴァーとフィロメーヌに頼れない。二人は自分たちの嘆きで手一杯のように見えたから。 だからなのか、クライマックスのひとつである第13章、その最後でジョジョが妹「ケイラを抱きかかえるようにして、父さんを抱きかかえる」ひとこまがむねに迫る。祖父リヴァーを父さんと呼ぶジョジョ。孫であり息子であるジョジョに抱きかかえられるこの瞬間、いつも誰かを守ろうとしてきたリヴァーもまた守られなければならないと読者は気づき、リヴァーが子どもだった過去とジョジョが大人になる未来が現在に重なる。リヴァーの回想は彼だけのものではなくなり、守られなかった者や守ることができなかった者の思い、無数の「葬られぬ」存在へとつながっていく。 第9章でリッチーはパーチマンとは「過去であると同時に現在でも未来でもあ」り、時間は「広い海」だと言う。そこに囚われる彼は様々なパーチマンを目撃し、たとえば刑務所以前の「豊かな土地に先住民の男たちが散らば」る光景を見る。その風景は、照準の定まった語りがジョジョたちの姿、そしてアフリカン・アメリカンの現実を切り出すなかで、ピントのゆるい遠望のように現れる。家族の肖像の内奥に、暴力と収奪の堆積したミシシッピ、そしてアメリカの歴史があることを告げているのだろう。 スクリブナー社版は夕焼けの朱赤に黒い鳥が舞うカバーであった。日本語版カバーは乳白色で、そこに墨絵のような大樹と孤独な鳥が描かれている。それを外すと、対照的な表紙が現れる。みっしりと重い物語に与えられたこの装丁もまた素敵な演出。(石川由美子訳・青木耕平附録解説)(かとう・ゆかり=慶應義塾大学文学部助教・北米文学) ★ジェスミン・ウォード=作家。『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え(Sing,Unburied,Sing)』『骨を引き上げろ(Salvage the Bones)』で全米図書賞を受賞。自伝『私たちが刈り取った男たち(Men We Reaped)』は全米書評家連盟賞の最終候補、シカゴ・トリビューン・ハートランド賞および公正な社会のためのメディア賞を受賞。