破滅的な世界で死ぬに死ねないじぶんを救うために 長瀬海 / 書評家・ライター週刊読書人2022年1月14日号 死にたいのに死ねないので本を読む 絶望するあなたのための読書案内著 者:吉田隼人出版社:草思社ISBN13:978-4-7942-2538-2 気鋭の歌人による文学エッセイである本書を前にして、僕はアンビバレンツな気持ちを抱かざるを得ない。なぜかというと、この書き手はまるで僕そのものだからだ。もちろん、僕は仏文の博士号を取得している著者ほどに博識でもないし、哲学的な素養があるわけでもない。それでも、本書を読んでいて、これはもしかしたら僕が書くことになっていたかもしれないエッセイだ、と感じてしまう。 たとえば、「はしがき」にこんな一文が書かれている。「ぼくは書物を読み、書くために生まれてきたのだと信じているし、事実これまでそうしてきたし、きっとこれからも死ぬまでそうしていくことだろう。」 あまりにこそばゆく、気恥ずかしささえ感じるが、著者の実存がまさに文学のためにあり、文学によって支えられていることを告げる文章である。レーゾンデートル、文学にあり!なんて、おいそれと口にできるものではない。だけど、じぶんの青臭さを自覚した上で正直に言えば、実は、僕も同じような気持ちを抱いてきた。 ハイデガー、ベルクソン、バタイユ、三島由紀夫、大江健三郎、田中小実昌、九鬼周造……あげたらキリがないくらい、たくさんの文学者たちの書物を精緻に読み解きながら、それらと自己の関係性の紐帯を結び直していくのが本書の特徴だ。厭世家だった高校生の著者は、ボードレールを読み、苦しみから逃れるために世界からおさらばしたい衝動に駆られ、線路に寝転がる。あるいは、亡くなった祖父の家でホフマンの『砂男』を見つけた著者は、主人公のナターナエルが不気味な男たちの記憶に囚われ、死への恐怖に駆られる物語に耽溺し、そこに「じぶんの行く末を暗示するもの」を見る。無垢で、あどけないじぶんの心の隙間に文学たちは容赦なく入り込み、人生を翻弄していく。その感覚は、高校時代に学校をサボりながらカフカの『変身』を手に取り、ザムザは俺だ!と心のなかで叫んだ僕には、とてもわかる。いや、僕だけじゃないはずだ。著者と同じ年代に、同じく早稲田大学で文学修養の時間を過ごした僕は、無数の、彼=僕のような人間と出逢った。あなたたちに伝えたい。ここにはあなたのことが書かれているぞ! 凄まじいほどの文学に対する強い信念を抱く著者のテクストは不思議で、フィクションと実際にあった出来事が境目なく語られることで、虚実が巧妙に入り混じっていく。時間の感覚が剝奪され、著者の人生がそのまま文学に幽閉されていく感じを受けるが、その世界観は、出口のない書物の散策を永遠のテーマに掲げる著者、僕、そしてあなたたちだけの特別なものである。文学の世界のフラヌールとしての自我を持ち合わせているのならば、ぜひ、その世界を覗いてほしい。きっと共鳴するはずだ。 後半になると、エッセイよりは批評の方に力が入る。相変わらず博覧強記ぶりを発揮していく筆致だが、僕は、その背後に仄昏い、不穏な雰囲気を感知した。この昏さの正体を見定めると、そこには震災後の不安定な社会情勢が影を落としていることがわかる。歌人としての一流の批評眼を持って、藤原定家、そして定家に影響を受けた塚本邦雄、堀田善衞の作品を読んでいく著者は、平安末期の騒乱と戦時下の混乱と現代の擾乱を重ね合わせて、言う。「荒廃していく世の中と、あるいはそれ以上に荒廃してしまっているかも知れない自己の内面。時代の暗さと自己の暗さと、二つの闇を抱えたとき、人は堀田善衞のいう「末期の眼」を手にする。」 そんな「末期の眼」こそ、本書で輝く著者の批評眼そのものであり、破滅的な世界で死ぬに死ねないじぶんを救う大切な武器である。その眼力でもって射抜く文学は、きっとこれからも著者を支えていくだろう。 文学を信じる意志を堅持する著者、僕、あなたたちは、もしかしたらどこかでつまずくかもしれない。周りに嘲笑われるかもしれない。だけど、それでも隣にいてくれるのが文学なのだ。文学を裏切らずに、生きてくれ。(ながせ・かい=書評家・ライター)★よしだ・はやと=歌人。フランス文学研究者。早稲田大学大学院文学研究科フランス語フランス文学コースに進み、二〇二〇年に博士後期課程単位取得退学。第五九回角川短歌賞、第六〇回現代歌人協会賞を受賞。一九八九年。