――頭と心に残って離れない言葉、文章、シーン――大矢博子 / 書評家・ライター週刊読書人2020年9月25日号季節を告げる毳毳は夜が知った毛毛毛毛著 者:藤田貴大出版社:河出書房新社ISBN13:978-4-309-02904-7 のっけから摑まれた。 〈コアラ警報が発令されて、首都圏にもコアラが直撃だってことで。きょうという日は降ってくるコアラに警戒しなくてはいけないし。〉 収録された五編の先陣を切る「コアラの袋詰め」の冒頭である。コアラ警報? コアラが降ってくる? 何だそれは。 何だそれは、と思った時点でもう著者の術中である。〈警戒しなくてはいけないし〉と言いながら登場人物たちの会話はどこか呑気で、それなのに〈降ってくるコアラ〉を人々が殺す描写は妙にリアルで、読んでいるこちらの気持ちの表面を粟立たせる。 いつしか〈コアラ〉という文字列が〈コロナ〉に見えてきた。警報が出て、町は大騒ぎで、けれど不気味な中にもどこかに他人事感がある──これはコロナ禍のメタファではないのかと思ったのだが、初出は二〇一四年だそうで、こちらの勇足だと気づかされた。 だがそんな連想ができてしまうほど、物語にとてつもない奥行きがあるのだ。コアラが空から降ってくるという荒唐無稽な話でありながら、いや、荒唐無稽だからこそ、読者はその抽象に何らかのリアルを仮託する。これを読んだのがコロナ禍の前だったら、おそらく別の何かに重ね合わせていたことだろう。 続く「夏毛におおわれた」も同様だ。暑い夏の日、〈ある男〉の声を聞いた人々の体がただれたり溶けたり、あるいはビルから飛び降りたりする。〈ある男〉に賛同している人は大丈夫で、反対している人の体だけが溶けるのだという。 なんともおどろおどろしい設定のはずなのだが、登場人物は皆飄々としていて、路面の血を踏まずに済むようにスケボーを買ったりするのだ。アイスコーヒーを飲みながら夏の歌を聞いたりするのだ。その傍で、人が落ちてくる〈ドサッ、ドサッ〉という音が響く。この不気味さにもまた、無意識のうちにリアルを仮託してしまう。 危険な冬毛が蔓延して人々が外に出ることすらできなくなった「冬毛にうずめる」はさらに顕著だ。買い物に出るのも命がけとか東京から他県への移動が禁じられるとかの描写から、これこそコロナ禍の話だろうと思ったら昨年の執筆で再度驚かされた。 他の収録作も含め、共通するのは、シュールな設定の中に浮かび上がる終末に向かう感覚だ。やんわりと破滅に近づく感覚だ。コアラが降ったり、猫が巨大化したり、ワニの洗髪屋やシベリアンハスキーのマッサージ師が登場したりというユーモラスな場面と、人々がじわじわと追い詰められていく剣呑さの不思議な両立。不条理で不可解にもかかわらず妙にリアルで腑に落ちる、奇妙な納得感。 そんな離れわざを可能にしたのは、著者の使う言葉の力だ。冒頭に引用した〈コアラ〉と〈警報〉のように、言葉と言葉が意外な出会いを見せる。独特な句読点の使い方が、出会った言葉をつなぎとめ、塊にする。塊が出会ってひとつのシーンを作り、シーンの重なりが奇妙な世界を作り上げる。その連鎖が思わぬ方向へ読者を押し出す。何だこれは。 そう、何だこれは、と思った時点でもう著者の術中なのである。言葉が、文章が、シーンが、頭と心に残って離れてくれない。いつまでも読んでいたいと思わせてくれる文の芸──まさに文芸だ。言葉が世界を生み出し、読者の想像力を搔き立てる。その快感をじっくり味わっていただきたい。(おおや・ひろこ=書評家・ライター)★ふじた・たかひろ=劇作家・演出家。二〇〇七年に演劇ユニット「マームとジプシー」を旗揚げ。以降全作品の作・演出を担当。三連作「かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。」で第五十六回岸田國士戯曲賞受賞。今日マチ子の漫画『cocon』を舞台化、同作で二〇一六年に第二十三回読売演劇大賞優秀演出家賞受賞。本作が初の小説集となる。一九八五年生。