――新たなステージに入った歴史継承を考える対照的な二冊――好井裕明 / 日本大学文理学部教授・社会学・エスノメソドロジー専攻週刊読書人2021年4月16日号なぜ戦争体験を継承するのか ポスト体験時代の歴史実践著 者:蘭信三・小倉康嗣・今野日出晴(編)出版社:みずき書林ISBN13:978-4-909710-14-7 戦後七五年も過ぎ、戦争体験者の語りに直接出会うことがますます希少となるなか、戦争体験を継承する実践が新たなステージに入った。そのことを象徴する成果が出た。五〇〇頁を超える質量ともに重厚な論集としなやかで率直な語りに満ちた素敵な対話集だ。出版事情が厳しいなかで、こうした貴重な成果を刊行した出版社の〝心意気〟に感動する。 まずは論集から。戦争非体験者の歴史的実践の意味や意義を問い直す論考の第一部と平和博物館の挑戦をまとめた第二部から成る。被爆者から体験を丁寧に聞き取り、それを絵に描く高校生たちの実践。愛国心を植えつけるためにアウシュビッツを〝活用〟するイスラエルの犠牲者ナショナリズム。ただ高齢化による影響だけでなく、非体験者の加入によりさまざまな質的変容をきたしつつある戦友会の現実。創作特攻文学で特攻体験者がどう描かれてきたのかの解読。戦争体験者の聞き取りにおけるトラウマ記憶の扱いをめぐる論考。いずれも思いきり興味深いものだ。 特に私は「原爆の絵」の実践に魅かれた。「原爆の絵」といえば、これまでの理解では被爆者が当時の記憶や体験を自らが描いたものだ。しかし、この二〇年のあいだに、新たな「原爆の絵」が創造されている。一人の高校生が一人の被爆者から当時の体験を聞き取り、それを絵に描く。自らの想像をはるかに超えた体験語りを理解し解釈し「絵」として新たに創造する営み。言葉で書けば簡単だが、実際「絵」を創造するのに、相当なエネルギーが必要だろう。〝あのとき、あそこ〟の光景や現実が人間としてのぎりぎりの思いを込めて語られる。それを〝いま、ここ〟で受けとめるには、どのように相手の語りと向き合えばいいのだろうか。それをさらに未来に向けて「絵」にするという。途中でやめないという約束だが、誰一人としてリタイアした高校生はいなかったという。なぜ彼らは「原爆の絵」を描かなければならないと感じ実践したのだろうか。そこには「反核・反戦・平和」という定番の価値では捉えきれない人間としての深い「悲しみ」「苦しさ」「怒り」「憤り」が溢れ出しているのではないだろうか。また被爆者が自らの体験を語る意気込みや意味も異なるように思う。語り部として自らの体験をさらし、拡散させるとき、大変なエネルギーが必要だろう。そのエネルギーが無駄なく「絵」に注ぎ込まれるとすれば、私であれば、うれしいと思う。高校生の「原爆の絵」の実践、そこには、身も心もできるだけ〝共振〟しようとする彼らの〝いま、ここ〟での歴史実践が息づいている。 平和博物館を紹介し論じる第二部。総論で歴史的概略と「記憶し想起する場」「(対抗的)情報発信の場」「痕跡的なマテリアルのアーカイブとしての場」という特徴的役割がまとめられている。平和博物館の現在や未来、機能などを考えるうえで貴重な論考だ。その後代表的な一五の博物館が紹介されている。「英霊を祀る」「体験的継承から対話的継承へ」「原爆の災禍から何を学ぶのか」「核の記憶とともに」「地域からみる、観光が拡げる」「ともに働くという継承」「『平和と民主主義』のもとに」「〈国民〉の〈労苦〉」「体験者でもわからないものとして空襲を捉え直す」「『慰安婦』被害者と出会い、正義を求め行動する拠点」「過去と対話する下伊那の歴史実践」。タイトルがそれぞれの博物館がもつ意味を語る。全国各地には小規模だがもっと多くの戦争を考える博物館があるだろう。今後こうした博物館という〝実践〟は戦争体験を考えるうえで貴重でありさらに深く考察すべき現実だと、論考を読み、端的に思う。 次に対話集だ。写真、絵画、小説、コミック、映像、音楽、演劇、工芸、彫刻、アプリなど多彩な手段で戦争をえがく表現者たちは、何を考え、感じ、そうした歴史実践を重ねているのだろうか。彼らは世界中にでかけ、今もなお生きている戦争の「リアル」と出会う。兵器の残骸から平和を願う巨大な彫刻まで。それらは単なる過去を示すモノではなく、常に〝いま、ここ〟へ新たな意味が噴出してくる、その意味で〝生きている〟モノだ。また彼らは具体的な一人の人間の〈現在〉に生きている戦争の姿と出会う。そうした出会いや関わりから生まれる怒りや悲しみ、呆れなどの情緒やより根源からの心の揺れ動きが表現の根底を貫いている。初めから国家や世界秩序などより大きな世界に照準をあわせるのではない。彼らの表現は、具体的な〈ひとり〉から溢れ出る戦争への思いに照準をあわせ、そこからより大きな世界を見抜いていく歴史実践であることを対話が端的に示している。 収められた対話はすべて魅力的だ。『ペリリュー』をめぐる話は面白かったし、特に私は長崎原爆の爆心地を示す下向きの矢印と長崎平和公園と爆心地公園にある具体的な〈ひとり〉を見えなくさせる巨大な彫刻がもつ権力の話に魅かれた。そしてどういうわけか、対話を読みながら、大林宣彦監督の遺作『海辺の映画館』を思い出していた。基本的な史実はおさえたうえで、奔放なイマジネーションがこれでもかと炸裂し、そうした映像に圧倒されながらも、大林の伝えたいメッセージが私の心をまっすぐに貫いていく。表現者たちの対話からも、同じようなものを感じ取っていたのだろうか。 対照的な内容をもつ二冊を読み、私は二つの言葉を思い浮かべる。「想像する力」と「創造する力」だ。どちらも取り立てて新しいものでないだろう。しかし戦争体験や記憶の継承自体が「自明の前提」であった時代は終わり、戦争を体験していないし戦争を知らない世代が中心となりつつある現在、「どのようにして」を考える前に、「なぜ継承する必要があるのか」という前提の問いから始めなければならない。たとえば、記録された語り部の映像、遺品、歴史資料と向き合うとする。そのとき、それらから〝生きられた生〟を想像し、自分たちや未来の世代にとって新たに〝生きられた意味〟を創造する力こそ私たちに必要なのだと、二冊は主張しているのではないだろうか。(よしい・ひろあき氏=日本大学文理学部教授・社会学・エスノメソドロジー専攻)★あららぎ・しんぞう=上智大学総合グローバル学部教授・歴史社会学・国際社会学。一九五四年生。★おぐら・やすつぐ=立教大学社会学部教授・生の社会学・ライフストーリー研究。一九六八年生。★こんの・ひではる=岩手大学教育学部教授・歴史教育・日本近現代史。一九五八年生。★おおかわ・しおり=映画監督。ドキュメンタリー映画『タリナイ』で初監督。一九八八年生。