上尾真道 / 京都大学人文科学研究所研究員・哲学週刊読書人2021年2月19日号HANDS 手の精神史著 者:ダリアン・リーダー出版社:左右社ISBN13:978-4-86528-295-5 手――あまりにも身近な私たちの身体の一部、それもとびきり忠実な一部と思われていたこの器官が、本書を読んだ後では途端に飼い慣らしがたい別の存在のようにすら思われてくる。イギリスのラカン派精神分析家ダリアン・リーダーによる本エッセイは、私たちが普段は省みることの少ない、このおなじみの器官の特異な振る舞いに着目し、その意義を掘り下げようとする試みだ。比較的自由に様々なテーマの間を移動しながら、広く知られた映画やドラマの例を取り上げつつ、射程の広い考察が繰り広げられる。取り留めのなさを印象づけるきらいもないではないが、精神分析の臨床経験と、ラカン学説の読解とに依拠したその洞察は、現代世界に別の角度から光を当てるための手がかりに満ちている。 まずはラカン派精神分析家が、手に着目すること自体の興味深さを指摘しておこう。一般に精神分析という実践は、「我に触れるべからず」と言わんばかりに、互いの身体から距離を取って、言葉だけを頼りに精神にアプローチするものであることが知られている。ラカンの理論において最も徹底されたこのロゴス中心主義には、そもそも西洋哲学において知性、思考、認識、言語に与えられてきた優位性の反響を確認できるだろう。これに対して、手への注目は「ながら」の次元を導入する(一九八頁)。言語や思惟のかたわらで、手による触覚の、制作の、行為の次元が展開している様が追跡されるのだ。世界の観察者、支配者であるより前に、世界と触れ合いながら存在している私たち、その接触面、境界線上にあるものとしてリーダーは手にフォーカスするのである。 こうして本書ではまず――精神分析家ウィニコットの概念になぞらえれば――手の移行現象的な身分が検討されることになろう。発達心理研究を参照するなら、目や思考の支配下に入る以前、口など他の器官との編成のうちにある手の活動性が見えてくる(第二章)。さらに母子分離の局面に着目すれば、両者を繫いだり、切り離したりする結節点としての手の意義に気づかされる(第三章)。あるいは、そうした境界線上にある手を忙しく働かせておくために、いかにヨーロッパ文明がせっせと品々を与えてきたのか、歴史を振り返ることも興味深いであろう(第四章)。 しかしやはり精神分析的洞察の妙がもっともよく冴えるのは、続く三つの章だ。情報テクノロジーとガジェットに囲まれた現代生活を背景に据えながら、リーダーは手を、過剰な刺激に占拠された身体からの「出口」をなすものとして検討しようとしている。例えば手淫、自慰は、単に快感を得るために行われるのではなく、むしろ不快に高揚した身体へのバリアを得る試みだ(一一九頁)。拳によってふるわれる暴力もまた、身体の内的動揺から逃れようとして自らの手を痛めるための自傷行為という側面を有する(一七二頁)。ここで問われるのは、世界との接触においても調和に至らず、内的な過剰に苛まれてしまう欲動的な身体性の問題である。リーダーは、手こそ、この過剰を受肉化するものであると同時に、その治療の鍵をも握っていると見立てているようだ。さらに、今日それは、私たちに袋小路として突きつけられた二択からの脱出口をも示唆している。すなわち環境刺激に振り回される諸々の「依存症」か、さもなくば強制された「自律」の指令に従い続ける「自律依存症」(二五頁)か。こうした二択に対し、本書は、手を媒介とした能動性の新たな拠点を探ろうと試みる。そのかぎりで、ただの文化批評である以上に、臨床や生活における実践的な気づきの機会を大いに含んだエッセイである。(松本卓也・牧瀬英幹訳)(うえお・まさみち=京都大学人文科学研究所研究員・哲学)★ダリアン・リーダー=ロンドン在住の精神分析家・コラムニスト。共著書に『ラカン』など。