――いつまでもこの話が終わらなければいいなどというとんでもない気持ちにさえなる――小谷野敦 / 作家・比較文学者週刊読書人2021年1月1日号水と礫著 者:藤原無雨出版社:河出書房新社ISBN13:978-4-309-02930-6 奇妙な小説である。「東京」とあるから日本なのだろうが、時代はいつか分からない。十九世紀の西部劇のようでもある。そして東京から郷里へ、そして日本にあるはずもない広大な砂漠をラクダのカサンドルに乗って、クザーノという男が別の土地にたどり着き、「蹄鉄亭」というレストランの一家と親しくなる。主人は宗之といい、クザーノは娘の由実と結婚してその土地に住み着く。だからクザーノとその息子のコイーザ、その子のロメオ、父のラモン、祖父のホヨーは外国人めいた名で呼ばれ、それ以外の人名は日本名になっているが、そのことについての説明はなく、しかもこの物語は、1、2、3、1、2、3という区切りを持っていて、同じことが少しずつずれながら語られるという不思議な体裁をとっている。だがその繰り返しは巧みで、最初は簡単に、時にはほのめかすだけだったことがらが次の回にはより細かく語られるといった仕組みになっており、さらにそれはクザーノの父親とその父親といった具合に中心となる物語の前と後へと広がっていく。だが、祖父の物語になっても、それが十八世紀になるとか、時代をうかがわせる描写はみごとに省かれている。 最後のほうでクザーノがロメオに言う「お爺ちゃんはな、今まで生きてきたすべての風景を、これから生きるすべての風景を、人生なんて言葉でまとめちゃいけないと思ってる。世界はそんなに簡単にできちゃいない」というのが、しいていえば主題だろう。物語が少しずれながら繰り返され、少しずつ増殖していくが、それは決定的にあふれ出したりはしないのがこの小説の世界で、それはお伽噺のようでもあるし、馴染みの落語を別の演者で、また同じ演者でも時とともに変わっていく演出で聴くのに近い。桂枝雀は演出の変化が激しかったから、枝雀落語のような味わいがある。そして繰り返しが退屈ではなく、いつまでもこの話が終わらなければいいなどというとんでもない気持ちにさえなる。 とんでもないというのは、実は私は、文芸誌に載る純文学短編や中編を、たいていは、早く終わらないかなと思って読んでいるからである。だからこんな体験は珍しい。それはちょうど、『ドン・キホーテ』の、続編を入れると岩波文庫で六冊にもなるものを延々と読んでいた時に感じたものに近い。 純文学作品には、十行にもわたる情景描写が延々と続くことがあり、それが純文学であることの証明ハンコみたいになっていることがあるが、この作品はそれがないのもいい。あるいは、最近の流行にならえばスラップスティックになってもおかしくないのに、なっていないのもいい。マジック・リアリズムにも似ているが、近ごろ濫用され気味のこの手法にしては、むやみと増殖しないのがいい。内容についてあれこれ考える気にならないのは、物語の運動自体に心地よさを感じるからである。 ここから何かの暗喩を読み取るべきかといえば、それはしなくてもいいだろう。またこの作者がこの後どのような作品を書くかということも、本人が考えることだ。小説の中には、ごく少量の情報しかないものをねっとりと濃密に描写するものと、多くの情報をさらさらと流すように書いていくものとがある。里見弴の「かね」という小説は後者の代表格だと思うのだが、私は概して後者の手法を好み、『水と礫』も、そのさらさらしているところにはなはだ好感を抱いた。だが、この作品自体は好ましいけれど、この作者が次にどんな作品を書くかということはまったく予想できない。才能があるのか、たまたまいいものができたのか、ということは私には判定できない。もっとも世間で、一作だけ見てすごい才能!などと言う人がいるがそれもそれで気が知れない。すでにライトノベルの共作が一編あるそうだが、純文学作家として次に何を書くのかは楽しみでもあるけれど。(こやの・あつし=作家・比較文学者)★ふじわら・むう=二〇二〇年本作で第五七回文藝賞を受賞。マライヤ・ムー名義の共著『裏切られた盗賊、怪盗魔王になって世界を掌握する』がある。一九八七年生。