――アメリカ(文学)が少女マンガにもたらしたもの――秦美香子 / 花園大学文学部教授・マンガ研究・メディア研究週刊読書人2021年11月19日号立ちどまらない少女たち 〈少女マンガ〉的想像力のゆくえ著 者:大串尚代出版社:松柏社ISBN13:978-4-7754-0282-5 少女マンガと海外のつながりが注目される際、最もよく言及されるのはフランスである。たとえば『二十世紀イリュストレ大全 少女まんがのルーツを求めて』(荒俣宏編、二〇〇四年、長崎出版)は、ヨーロッパ・アメリカ双方の挿絵やグラビアに少女マンガの源流を求めているものの、第一巻の内表紙には「日本の少女まんがはフランス黄金期の挿絵から生まれた」(一頁)と大きく書かれている。対して本書では、とくにアメリカと少女マンガの関係に目を向け、「ここではないどこかへ」を一つのキーフレーズとして「アメリカ(文学)が少女マンガにもたらしたもの」を検討している。『若草物語』などのアメリカ少女小説と少女マンガの連続性を何となく感じていた少女マンガ読者は決して少なくないとは思うが、本書はそういった読者の実感を改めて深く掘り下げ、そこに少女マンガにとって極めて重要な意味があったことを鮮やかに言語化している。 少女マンガの通史を書いた重要文献である米沢嘉博の『戦後少女マンガ史』(一九八〇年刊、二〇〇七年ちくま文庫版を参照)では、アメリカ映画などの影響を受けて描かれた少女マンガ作品について、「ストーリーや小道具ファッションが重要」(一六〇頁)、「広がりのある華麗な世界を確保する一方、キャラクターとしての少女像を取り落としていた」(一六四頁)などと述べている。アメリカ的なものは、読者にとっての現実とは別の世界を理想的に提示するものであったが、それゆえに読者の生活実感からは乖離し、読者の人生に深く食い込む力までは持たなかった、という評価が読み取れる。 本書は、米沢が指摘した「華麗な世界」の物語が伝える意味を検討することで、こうした作品を再評価し、議論を発展させている。本書によれば、華やかなアメリカの生活や、異国で展開されるロマンティックな恋愛の物語は、自己実現や自立という主題を前景化するものでもあった。また、作品の掲載誌上では、異国の夢のような物語を読者が「自分たち」の物語と位置付けられるよう工夫も施されていたという。つまり、読者が憧れるような異国の物語は、読者の手には決して届かない夢というよりも、読者の現実を揺さぶる可能性を描いていたのである。 本書の後半では、考察の対象を広げていくことで、少女マンガが持つ「ここではないどこかへ」の指向、言い換えれば自分がどうあるべきか、どうありたいかをめぐる想像を更新させる力は、アメリカ的なものとつながる日本の少女マンガ作品に限らず、少女マンガ的な物語全体に通底するものであることが示される。具体的には、オトメチックマンガの理想であった「恋人との永続的な関係」や「永遠の少女性」の先を描く岩館真理子らの作品(第五章)、「少女マンガ的」と評された吉本ばななの作品(第六章)、そして『ワンダーウーマン』(第七章)が考察される。日本の少女マンガを論じる本の中で『ワンダーウーマン』のようなアメリカン・コミックスが並列的に語られるのは珍しいことであるが、「アメリカ」と「少女マンガ」について語る本にとっては必須のトピックともいえる。 個人的な感想を述べれば、本書は誰かと久しぶりに少女マンガトークを楽しめたような読後感があった。評者自身にとって、アメリカ的なものを教えてくれた少女マンガといえば樹なつみ『パッション・パレード』(一九八七~八九年、白泉社)である。この作品は本書では言及されていなかったが、それでも、評者がこの作品に励まされ、人生の可能性をめぐる想像の範囲を広げてもらえた記憶が、本書を読むことによってよみがえり、改めて作品に感謝する気持ちになった。もっと若い世代には、異国ではなく異世界を描くマンガやアニメ作品によって「ここではない別の場所」への憧れや希望を喚起され、自分が前向きに生きていくための何かを受け取った経験がある人も少なくないだろう。そういう人たちが自身の読書・視聴経験の意味を振り返るきっかけにもなる本ではないかと思う。(はた・みかこ=花園大学文学部教授・マンガ研究・メディア研究)★おおぐし・ひさよ=慶應義塾大学文学部教授・アメリカ女性文学・ジェンダー研究・フェミニズム・日本少女文化。著書に『ハイブリッド・ロマンス アメリカ文学にみる捕囚と混淆の伝統』『『ガラスの仮面』の舞台裏』(分担執筆)など。一九七一年生。