――凄まじい描写、圧巻のシーン、人間とは何か、自分とは何かを問う――岳真也 / 作家週刊読書人2021年7月23日号世阿弥最後の花著 者:藤沢周出版社:河出書房新社ISBN13:978-4-309-02968-9 一読後、「周さん、超えたね」と、私は思った。何を、誰を、ではない。藤沢周は、この作品は、ただひたぶるに「超えた」のである。 観阿弥・世阿弥父子の名は高い。が、彼らの実態を知る人は、ほとんどいないだろう。父子は室町初期の申楽師で、大和の結崎座を率い、のちに「観世流」とよばれる歌舞主体の幽玄能の基を固めている。観阿弥は足利家三代将軍・義満の覚えめでたく、その没後、跡を継いだ世阿弥もまた、寵愛されて「夢幻能」を完成させる。 一方では『高砂』や『西行桜』などの謡曲を作り、名だたる能芸論『風姿花伝』を著わしたが、次々代将軍の義教には疎んじられ、勘気を被って、遠く北海に浮かぶ島、佐渡へと流される。 その佐渡へと渡る船中から物語は始まるのだが、なんと、この序章の語り手は、世阿弥の佐渡遠流よりも二年ほど前に伊勢の地で毒殺されて逝った跡継ぎの観世元雅なのである。他の章の大方は世阿弥本人が語り、ラスト近い第十章の語り手がふたたび元雅となる。 途中いくどか、地元の雑田城主・本間信濃守泰重の家臣にして世阿弥ら一行の案内役、溝口朔之進(役目柄、当初は世阿弥らと対峙していたが、やがては和し、出家して了隠を名乗る)が語る件りもある。そのことからして、本書が時代物にはきわめて珍しい「実験作」であることが分かるだろう。それだけに私は、単に面白いというよりも、これは手強いぞ(超えている)と感じたのである。 もっともストーリー自体は、さほどに複雑ではない。齢七十二にして、世阿弥は笛方の六左衛門を供に佐渡へとたどり着く。最初の配処先は新保の万福寺、ほどなく隣村、泉の正法寺なる古刹に移り住む。万福寺の住職・劫全、正法寺の峯舟和尚も手厚く世阿弥をもてなす。さきの僧・了隠も、世阿弥の弟子の一人となって謡を習う。世阿弥を「世阿爺」と慕い、まだ六歳と幼いながら弟子入りして立派に小鼓方をつとめる海士宿の息子のたつ丸。ほかに六左衛門と恋仲になる気の強い島の娘、おとよなども登場し、和気藹々、意外や愉しく、満ち足りた日々を送る世阿弥ではある。 しかし信濃守から「雨乞の能をせよ」と命ぜられてから、一転、話は苛烈と言おうか、過激、衝撃……老爺・世阿弥が生命懸けで雨乞立願能を舞うシーンは圧巻だ。奇跡的に雨は降り、田畑は甦る。後半部、以前にやはり佐渡に流されて客死した順徳院の御霊を世阿弥が演じ、弔う「黒木能」を披露するが、これも凄まじい描写である。 連歌に通じた世阿弥の歌の解釈や、『風姿花伝』を藤沢周なりに翻訳したと思しき文言も数多くちりばめられている。こんな具合だ。「能は前にも、後ろにも、死がある。死の只中の錐の点で生きるのが舞ではないか」 メタファーもまた、素晴らしい。冒頭からして、こうである。「光とは、なんと不思議なものでございましょう。/あんなにもさんざめいて瞬き、銀糸を刺した帯のようにうねるかと思えば、金箔を貼った扇のようにも広がる。また縮み、わだかまり、螺鈿が弾けたように、まばゆさを広げてきらめく」 本書は佐渡に流讁された世阿弥元清の晩年の生き様のほか、一貫して息子・元雅とのことが綴られている。此岸と彼岸、父と子。しかも父は七十路にして此岸に留まり、子は先に逝くという「逆縁」の関係。けだし、迷宮ならぬ「結界」を旅する父子の姿が、この物語の大きなモチーフの一つとなっている。もしや、世阿弥と同じような体験をもつ私は、出会うべくして本書と出会ったのかもしれない。 仕事(芸道)一途で幼い頃の元雅に厳しく、抱いてもやれなかった世阿弥が、「世阿爺」とすがりつくたつ丸の頭を撫でてやる。激烈な物語の中で、そんな場面も少なからずあり、ほっと肩の力を抜くとともに、つい同齢のおのれを重ねてしまう。 ひとり私だけではあるまい。大半の読者の眼に、コロナ禍で幽閉されたように暮らす我が身と、世阿弥が二重写しになって見えるのではないか。 時代物というと一般に、エンターティメントと思われやすい。それがメリットになれば、逆にデメリットになることもある。けれど本当は、そんなジャンル分けは要らないのだ。本書をひもとけば、瞭然であろう。 歴史上の人物を介して、ワット・イズ・ア・ライフ――人間とは何か、自分とは何かを問う。現代小説、時代小説などといったカテゴリーには係わりなく、この作品こそはまさに本物の「純」文学なのである。(がく・しんや=作家)★ふじさわ・しゅう=「ゾーンを左に曲がれ」でデビュー。「ブエノスアイレス午前零時」で芥川賞を受賞。著書に『サイゴン・ピックアップ』『箱崎ジャンクション』『武曲』『武蔵無常』など。一九五九年生。