――輻輳する意味を読み・書く技術の復権を示唆する本――須川静雄 / 編集者週刊読書人2021年8月6日号聖人伝 プロティノスの彼方へ著 者:立木鷹志出版社:港の人ISBN13:978-4-89629-389-0 風合いのある白い箱から、ハトロン紙に包まれた黒く分厚い本が現れる。表紙には、空押しの上にボッシュの絵の断片が貼られている。糸かがりの、美しい造本だ。拝金主義全盛の令和の世にあっては、反時代的といって差し支えあるまい。 装丁が暗示するとおり、本書の内容も時代の趨勢を無視し、超然としている。驚くなかれ、埴谷雄高『死霊』ばりの思想小説なのである。さまざまな思想なり観念なりを受肉した登場人物たちが次々と長広舌をふるい、議論を繰り広げる。ただし、文章は流麗で読みやすい。プロットもスリラー小説のようで、思想に疎い読者にも魅力的に映りそうだ。 妻を亡くし、パリでひとり暮らしをする久留米亮平の前に、ある日不審な男女が現れ、ひと晩部屋に泊めてやることになる。男の名は矢吹進吾、ふたりはどうも駅の爆破テロに関わっていたらしい。矢吹は久留米が錬金術関連の資料を集めていることに興味をもち、「《資本のシステム》を壊すために、人びとの精神の中に、これまで誰も仕掛けなかった時限爆弾を密かに仕掛けることが必要」だと説き、ジャック・クールの錬金術手稿の読解を依頼する。矢吹は紅冠鳥(カーデイナル)戦闘団という組織のメンバーで、久留米はジャック・クールの末裔とされる〝森の隠者〟のもとへと誘われる。「神秘の石」が解読の鍵と聞いた一行は、捜索のためテンプル騎士団の町プロヴァンへと向かう。だが、駅を爆破したテロ組織を逮捕すべく、警官隊も彼らの足取りを追っていた……。 とはいえこの小説は、プロットだけを紹介しても、半分もわかったことにはなるまい。そこが思想小説たる所以だが、本書で展開される思想なり観念なりを逐一追うには紙幅が足りない。仮に外堀から埋めていくなら、まず作品全体に埴谷雄高の影が落ちていることを、作者は隠そうともしていない。埴谷雄高が、戦前に投獄された体験や日本共産党のリンチ殺人事件のインパクトを受け止めつつ『死霊』を構想したように、一九四七年生まれの作者も全共闘運動の挫折と瓦解のインパクトを受け止めながら文筆活動を続け、また埴谷雄高の問題意識を引き継ぎつつこの作品を構想したはずだ。もちろん作者自身の体験や思索も盛り込まれている。「革命」に対して作者なりに接近する道筋が暗示され、「虚体」についてもやはり作者なりの答えを用意していることが伺える。『死霊』やニコラ・フラメル『象形寓意図の書』など、作中に引用されている本を追っていけば、本書の構成の重層性が自ずと身に迫ってくるに違いない。 さて、作者は本書自体を「これまで誰も仕掛けなかった時限爆弾」(これはもちろん『死霊』用語だ)として書いていたはずだが、ありうべき余波について、作者の目論みとは違った視点から指摘しておきたい。こうした観念や寓意に満ちた小説は、今でこそ少なくなったとはいえ、つい五〇年くらい前まではふつうに書かれていたものだ(一例を挙げれば倉橋由美子)。現在でも某国民作家はそれに近い書き方をしていながら、そう読まれてはいない。おそらくテクストを徹底して読むという原則が、目の前の字面さえ追っていればいいのだと誤解されることで、こうした小説をその読み方ともども殺してしまったのだ。もちろん、テクストの上に別の意味が重畳された作品は、歴史的に見ても珍しくない。それを今の読み方にそぐわないという理由で排除してしまうなら、間尺に合わない話だというほかはない。謎がかつての誘引力を失いつつある時代に予期せぬかたちで現れた本書は、輻輳する意味を読み・書く技術の復権を示唆しているのではないだろうか。 最後になったが、この本の作者の名は、立木鷹志という。『媚薬の博物誌』などの著作や訳業のある文人だが、本年四月に惜しくも亡くなられた。おそらく本書の校正刷に目を通したのが、文筆家としての最後の仕事になったであろう。この小説とは別の領域をめぐる評論の著作も用意されていると聞く。故人の冥福をお祈りしたい。(すがわ・しずお=編集者)★たちき・たかし(一九四七―二〇二一)=作家・翻訳家。著書に『虚霊』『夢の形をした存在のための黙示録』『夢と眠りの博物誌』『媚薬の博物誌』『時間の本』、訳書に『大アルベルトゥスの秘法』『夢の操縦法』(国書刊行会)など。