――「不確実な現実から確実な切れ端を少しでも摑もうともがくこと」――末井昭 / エッセイスト・編集者週刊読書人2021年2月5日号平熱のまま、この世界に熱狂したい著 者:宮崎智之出版社:幻冬舎ISBN13:978-4-344-03716-8 著者は大学の文学部にいるうちから酒をよく飲み、社会人になってからも三六五日休みなく飲み続け、急性膵炎で二度入院している。なぜそれほど飲むのか。著者は〈やっぱり心が壊れていた。それをなんとか取り繕おうとアルコールを飲み、さらに心は壊れ、酒は深くなっていった〉と振り返る。 離婚を経験して心が壊れる音を聞き、それでも酒を飲み続けた。〈酒を飲むと、心の弱い部分、壊れた部分が隠せると思っていた。飲んでいる間は、自分を強い人間だと信じ込むことができた〉 下手をすれば命に関わる状況になり、医師から断酒を命じられる。それを素直に受け入れられたのは、自分が弱い人間で、強くなろうとするたびに事態は悪化することに気づいていたからだ。著者は〈医師にはっきりと引導を渡されたとき、どこかほっとしている自分がそこにはいた〉と書いている。 著者は二度と酒を飲まないつもりでいる。それは、意志が強くなったからではなく、〈むしろ「弱さ」のほうである。再び敗北するのを恐れる臆病な「弱さ」が、酒をコントロールできるという思い込みから、ぼくを少しだけ引き離してくれる〉「弱さ」の強さだ。 病気になっても酒をやめない知り合いがいるので、ついつい引用が長くなってしまったけど、これは導入部である。断酒した著者が取り組んだことは、目の前にある生活を見つめ直すことだった。〈自分以外の「何者か」になろうとするよりも、すでにあるもの、あったものを見て、感じることのほうが、自分の人生を豊かにできると確信するようになった〉〈ありのままの世界をありのままに生きること、不確実な現実から確実な切れ端を少しでも摑もうともがくこと、その勇気を持ち続けることでもある〉その決心が〈ぼくは平熱のまま、この世界に熱狂したい〉なのだ。 この本は二〇編のエッセイから成り立っている。そのなかに「紳士は華麗にオナラする」という文章があって、ぼくは「すごいなあ」と思いながら読んだ。駅構内のトイレで小便をしていたら、隣りで小便をしている五〇代後半くらいの紳士が、「バファッ!」と大きな破裂音のようなオナラをした。すかさずその紳士は一言、「失敬」と低い声で呟いた。著者は、この言葉にどう対応したらいいのか戸惑った。その「戸惑い」を考えていく。 〈公共の場でのオナラに対しては、偉大なる儀礼的な無関心を発動するべきなのだ〉〈それをわざわざ顕在化させて議論の俎上に載せるのは、無粋な行為である〉〈いきなりオナラの問題を俎上に載せられて戸惑ったものの、考えてみれば俎上に載せられることを拒否したぼくの反応こそが「人類の怠慢」を助長している態度なのかもしれない。儀礼的な無関心を長く続けてきたことで、人類はオナラについて思考停止に陥ってしまっていたのではないか〉と結論づけている。オナラのことをここまで深く考えた文章に出会ったことがなかった。 最後の章にある「ぼくが好きだった先輩」に、次のような箇所がある。〈もしぼくが見ている世界が、ぼくにとってどこか白々しいものであるとするならば、それはそこにぼくがいないからだ。具体的な感覚を持って、そこにぼくが存在しないからだ〉〈ぼくが書いたり、語ったりする言葉が少しでも実感のこもったものになっているのだとしたら、それは弱い自分を前提としている言葉だからであろう〉 ぼくは文章を書くとき、白々しさを最も警戒する。だから著者のこの言葉は、ぼくにとっての戒めでもあり、励ましでもある。いや、ぼくだけではない。すべての創作者への戒めと励ましだ。(すえい・あきら=エッセイスト・編集者)★みやざき・ともゆき=フリーライター。地域紙記者、編集プロダクションなどを経る。カルチャーや日常の違和感を綴ったコラム、エッセイを執筆。著書に『あの人は、なぜあなたをモヤモヤさせるのか』など。一九八二年生。