――一つのジャンルの可能性と限界を丸ごと表現した多面的な存在――大宮勘一郎 / 東京大学教授・ドイツ文学週刊読書人2021年3月26日号デヴィッド・ボウイ 無を歌った男著 者:田中純出版社:岩波書店ISBN13:978-4-00-024061-1 本書は、デヴィッド・ボウイ(一九四七―二〇一六)という多面的な存在を作家論として掘り究めた圧倒的な論考である。ロック・スターの枠を超えた活躍を残したボウイについては内外で多くの書物が書かれているが、彼に作家性を認め、その「歌と声」の考察を中心に据えたものは恐らく他に類がない。 一九七〇年、『世界を売った男』と相前後して映像性に自覚的な活動を始めたボウイは、「グラム・ロック」の旗手として名を高める。いきおい人々の関心も視覚表現に向かったが、彼の歌に「虚無」を直感し、肯定的に受け容れたのは、六〇年生まれの田中氏や、かつて氏が訳した『ボウイ★その生と死に』におけるサイモン・クリッチリーがそうであるような、「六八年の世直し」に遅れた子供たちであった。彼らは、「すべての若きdudeたち」(歌詞をもじってT-wrecksと言うべきか)に向けられた儚さと装いの礼賛に、世相的流行としてのニヒリズムにとどまらない内実へと通じていることを聞き逃さなかった。それは六九年の「スペース・オディティ」に既に歌われ、七一年の『ハンキー・ドリー』、七二年の『ジギー・スターダスト』にも通底するもので、いわば黙示録的=歴史哲学的な目的因かつ作用因としての「無noth-ing」なのである。 ロック・スターとしてのボウイ、すなわちステージやメディアにおけるその傾奇(かぶき)者としての目眩くような現れと、こうした「無」のとの間の関係は「現象/本質」「仮装/正体」といった対立的なものではない。こうした無粋な誤りの微塵もない本書がボウイにむしろ見いだすのは、可塑的な分身性である。本書の議論は多岐にわたるもので、安易な要約を許すものではないが、以下そのうちほんの一筋を(少々強引に)辿ってみる。「世界を売った男」にはじまり「チェンジス」で綱領めいて表現されるように、多様な分身を作り出し、それらと同一化してゆくことの繰り返しがボウイの特異性であることは、つとに指摘されている。そのファッショナブルな軽やかさに幻惑された聴衆も多かったはずである。しかし本書は楽曲の精密な分析から、そこにマーケティング戦略とは全く異なる本能的動機を認めている。すなわち「ロックとの距離」を確保する努力である。 遅れてきたロッカーでもあるボウイは、いわばロックに内在する神話的暴力(本書の言う「ロック・イデオロギー」)に魅了と恐怖を覚えてきた。浸るのは身の危険だが、斥けることもできない。本書によれば、彼が採用したのは、ロックが及ぼすこうした両価的な力を自らも身に帯びつつ、しかもそれから身をかわす、という困難な対応である。楽器、コード、ビート、声、歌詞が互いに曰く言いがたい不一致を示し、それゆえに印象的なボウイ・サウンドが織りなされるが、それはバランスを崩せばたちまちロック神話の扇動アピールになるか、没ロック的に弛緩するか、という危ういものであった。『ジギー』で絶妙に保たれたこのバランスは、七三年の『アラジン・セイン』では、より攻撃的なアレンジに声と歌のアイロニーやノスタルジーを縒り合わせた「渦巻き」状の構成へと変容する。しかし、自らの可塑性を武器としたロックとの境界づけは、絶えず多様化し拡張するロック自体の可塑性に浸潤される。『ダイアモンド・ドッグズ』(七四年)におけるロックの異化と壊乱は、おのれがそのようなロックの分身であることを欲し、大いなる兄弟=ロックと格闘し絡み合い、そして誘惑に屈することで成し遂げられる。逆説的なことに、「大文字のいかさま師」の声に服すことの(ドイツ語でいうhörigな)享楽の只中で、別の声、別の言葉が発せられるのである。『ドッグズ』には、こうした身体を賭すような濃密な経験が表現される。ボウイはこの経験を次いで「アメリカ」に求める。 七五年の『ヤング・アメリカン』において、「可塑的(プラスティツク)な魂」は「忌々しい歌」に挫かれることを希求して「作り物(プラスティツク)の魂=ソウル」を艶やかに擬装するが、七六年の『ステイション・トゥ・ステイション』においてその快楽はいよいよ苦痛と綯い交ぜになり、コカインやオカルティズムによって研ぎ澄まされたそのサウンドには、可塑性を失い硬化した魂を、さながら内砕してゆく凄みがある。七七年の『ロウ』の寡黙さには、アメリカで破砕され閉ざされた魂の言語の、前言語的なものへの墜落を聞き取ることができる。ブライアン・イーノによる手の込んだサウンドに言葉が寸断され「喃語」に近づくような造形を、本書はヘラー=ローゼンに倣い「谺(こだま)する言語」と呼ぶ。それは、墜落する天使=メディアの脆い身体が発する弱々しく慄える声である。この「自己破壊」による解放=墜落した詩人の言葉の再生とは、ドイツ悲劇的過程である。本書はここにロックの「臨界」を認めている。 西ベルリンで制作され、同年秋すなわち「ドイツの秋」にリリースされた『「英雄たち」』では、演技過剰な歌声が再び頻りに「無」を歌う。しかしそれは、「ロック・イデオロギー」に絆されつつ、おのれの虚構性でそれに抗す歌声ではもはやない。テーヴェライトの言う「悪童たち」のまつりごととしての「大文字のロック」はもはや存在しないので、誰でもない者の「英雄」性をアイロニカルに「私たちは無」と歌い上げるボウイ自身もまた「一日だけ」の安定を示すが、ここに新たな孤立が始まる。これ以降の彼はロックという「ヴォイドと化した無」と相まみえることになり、そこで繰り返されてきたのは、ロックとの格闘を経て散乱するおのれの分身たちの残骸を「ヴォイドの無」から「汲み尽くしえぬ謎としての無」へと救出する試み、すなわち「大文字のロック」ならざる「別のロック」を奪い返す試みであった。大別して本書の後半分を占めるのは、それら個別の、捗々しさを度外視した試みの豊かで詳細な分析であるが、これを紹介し論評する余裕は、もはや本稿にはない。ただ、デビューからおよそ十年間の活動にかんして本書が提供する精確なスキームを参照することなしに、八〇年代以降のボウイを語ることはおよそ困難であろう。本書が指摘する、おびただしい間テクスト的参照関係がこのことを証拠立てる。 多くの関連文献を渉猟・咀嚼したうえで構築された本書には、ボウイについて改めて考えさせられる点がいくつも書き込まれている。異父兄の存在とオブセッシヴな「兄弟」モティーフとの関わりなどは、私的事情を超えて「友愛」の両義性、そしてまさしく「一」に対する「二」の先行という「分身」の主題に通じていようし、ボウイ自身のセクシュアリティについても、抑制的に語られているためにかえって腑に落ちる。(つまり、分身の属性であって、騒ぎ立てるべきことは何もない。)楽曲分析については、音痴である評者が何をか言わんやで、ここでリフとかぶるんだよなあ、と十代の頃ぼんやり考えていたところに、晩年のカート・コベインも悩んでいるのを見て嬉しかったのを思い出すくらいなのだが、しかし理由があっての構成であることを本書は教えてくれる。また、カタカナの力を思い知らせてくれるのも本書の魅力である。「作家性」は二〇世紀に再検討を余儀なくされた概念である。もはや「創造主体」というような素朴な理解は成り立たない。ある人の制作と行為が、一つのジャンルの可能性と限界を丸ごと表現するものであったと顧みられるような場合にのみ、その立ち去った後に「作家」としての輪郭が残されるのである。ボウイを「作家」と呼ぶことには、アナクロニズムではない必然性があるだろう。冥界から「聞こえてんのか!」と一喝されるのを恐れ望みつつ、最後に言い添えておく。(おおみや・かんいちろう=東京大学教授・ドイツ文学)★たなか・じゅん=東京大学大学院総合文化研究科教授・表象文化論。著書に『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』(サントリー学芸賞)『都市の詩学 場所の記憶と徴候』(芸術選奨文部科学大臣新人賞)『政治の美学 権力と表象』(毎日出版文化賞)など。一九六〇年生。