――宮崎駿が冒険活劇にこだわる理由・アニメに「生」を与えるもの――伊集院敬行 / 島根大学法文学部准教授・映像メディア論・デザイン論週刊読書人2021年1月1日号シネアスト宮崎駿 奇異なもののポエジー著 者:ステファヌ・ルルー出版社:みすず書房ISBN13:978-4-622-08894-3 かつて日本ではアニメは映画よりも、漫画に近いメディアだと思われていた。一九七〇年代頃まで一般にアニメが漫画と十分に区別されず、「漫画映画」や「テレビまんが」と呼ばれていたのはこのことをよく示している。しかし一九七〇年代以降、写実的な描写と映画固有の表現手段が積極的に用いられるようになると、あたかも実写のような作品が作られるようになる。 宮崎駿の歩みはこうした日本のアニメの発展と軌を一にする。彼の一連の作品に見られる特徴、すなわちアニメならではのダイナミックな動き、実写のような現実感をもって描かれる独自の世界観、魅力的なキャラクターが織りなす物語に、我々は宮崎の思想や作家性を認め、彼を日本のアニメを大人の鑑賞に耐える立派な映画にしたアニメ作家、映画監督として評価する。だが、ステファヌ・ルルーの『シネアスト宮崎駿』は、シネアスト=映画作家として宮崎を評価することで、このような宮崎理解に反省を促す。では本書でルルーは、シネアストという言葉を使ってどのように宮崎を評価しているのだろうか。 しばしば我々は宮崎のようなリアルな作風を持つアニメを見て、「まるで実写のようだ」とか、「実写でしたらよいのに」という感想を持つ。だが、どれほどアニメに実写のような現実感を覚えるとしても、それはそのようなアニメが実写の表現や演出をそのままなぞっていることを意味しない。そうではなく、アニメがそれ固有の方法で「生」を描くことに成功したからこそ、我々はアニメに現実感を覚えるのである。この事情は実写でも同じだろう。アニメも実写もそれぞれの道を模索し、「映画」となった。ルルーが宮崎をシネアストと呼ぶのは、宮崎がその道を独自に開拓したからに他ならない。 では、どのように宮崎はアニメで生を描いたのだろうか。ルルーの考えを要約するなら、次のようになるだろう。 描かれたものであるアニメは、それが絵空事であるがゆえに空想の世界を生み出し、それが多くの子供たちを喜ばせてきた。この絵空事、空想の世界がもたらすものをルルーは「驚異」と呼ぶ。しかし、そのようなアニメが実写のような時間・空間を描くとき、その内部に「驚異」と「現実らしさ」が対立することになる。そしてこの対立が「奇異なもの=ポエジー」を生みだす。ルルーはこのポエジーこそ、宮崎のアニメに生を与えるものだと考える。 このような考えに基づき本書でルルーは、宮崎がアニメーター時代に参加した作品から彼の監督作品までを辿りながら、実際には存在しない空想の世界が現実的な空間や環境音で描かれること、そこに登場する道具や機械や不思議な生き物が持つ存在感、劇的な物語とそれを中断するようにして挿入されるシーンに見られる自然らしさ、主人公と彼・彼女に無関心な人々や動物、滑稽さと真剣さが同居するアクション、とんでもない出来事に対して控えめな演出といったものを取り上げ、そこに「驚異」と「現実らしさ」の対立を見る。そしてルルーは、宮崎がそのキャリアを通して冒険活劇にこだわる理由をここに認める。つまり、宮崎は冒険活劇を現実感溢れるように描いたのではなく、それを「驚異」と「現実らしさ」を対立させるための枠組みとして利用した、とルルーは考えるのである。 アニメは描かれているがゆえに、それがどれほど実写のようであっても、「驚異」と「現実らしさ」の対立がそこに生じる。これはアニメが実写と大きく異なるところだろう。おそらく漫画の実写化が難しいのはこのあたりにその理由がある。それぞれのメディアはそれぞれの方法で作品に生をもたらすのであり、宮崎はアニメのその新しい方法を開拓した。宮崎が優れたシネアストであるのは、彼が優れたアニメーターだからなのである。本書は宮崎のアニメを論じるものであるが、その射程は日本のグラフィックと映像全般にまで及んでいる。(岡村民夫訳)(いじゅういん・たかゆき=島根大学法文学部准教授・映像メディア論・デザイン論)★ステファヌ・ルルー=フランス・レンヌ市のリセ・ブレキニー「映画オーディオヴィジュアル」クラス教授。レンヌ第2大学講師。アニメーション映画研究者。