――世界を規定する輪郭を疑い、変容させること。喪失の感覚――長瀬海 / 書評家週刊読書人2021年3月19日号もどろき・イカロスの森 ふたつの旅の話著 者:黒川創出版社:春陽堂書店ISBN13:978-4-394-19020-2 春陽堂書店から黒川創の「もどろき」と「イカロスの森」が収められた本が出ると聞いて、おやっと思った。どちらも二〇〇〇年代の始めに単行本として刊行された作品だ。そんな昔の作品が、どうしてだろうか? という評者の疑問は二作を続けて読んでみて、また、最近のこの小説家の作品と並べてみて、氷解した。ここには黒川創の批評的態度が、彼にとって世界と関わるということはどのようなことなのかが、濃縮されている。それをコップで掬いとって観察することは、彼の眼差しの先で広がる原野を歩くことになるのかもしれない。この書評はそのために書いてみたい。「もどろき」と「イカロスの森」の前に、まずは本書の最後に収録されている短編「犬の耳」に触れよう。一九九九年に書かれたこの作品は、物書きの「わたし」が、恋人を失った寂しさのなかで、彼女との幸せな生活を回想していく、というものだ。「わたし」はある日、彼女が読んでいた一冊の本を見つける。ディドロの『ブーガンヴィル航海記補遺』。この本を通じて、権力が作った恣意的な世界像を、マージナルな側に立つ人々への想像力が打ち壊すことの意味を、在日コリアンである彼女が悟り、残された「わたし」が気付く。この短編はまさに黒川創の出発点ともいうべき作品となっている。 世界を規定する輪郭を疑い、変容させること。喪失の感覚。彼の物語はこの二つの間で絶えず紡がれているのである。では「もどろき」はどうか。語り手の「私」の父が自死した。祖父も死んだ。父の遺品を整理する「私」は、祖父の戦争体験、養子だった父の生涯に想いを巡らす。それはやがて、世界に存在することとはなんであるのか、を問う思索の旅となる。いや、その旅路を歩んでいたのは、血縁のない家庭でよるべなさを抱えていた父であり、世界地図の虚構性を知悉する地図のデザイナーである「私」は、世界の確かさそのものに疑念を抱くのだ。だから、父の小説を書こうとする「私」は祖父や父の生を内在化し、その記憶に深く潜り込むことで、自分にとって確かな世界を構築しようとする。いわば黒川にとっての世界づくりのはじまりが、ここにあるのだろう。「イカロスの森」では、小説家の「私」が「死の黒い湖」を探しにサハリン島へ行く。若い頃、「私」は南サハリンからの移住者が暮らす開拓集落を訪れた。「私」はそこでの出会いがきっかけでサハリンに関心を持つこととなり、自分の足で見聞することとなったのだ。物語は、国境という力任せな線引きがされた土地を巡ることで周縁そのものを捉え返そうとする。輪郭を変容させるわけだ。では、この作品を動かす喪失とは何か。それはこの物語が二〇〇一年九月十一日を軸にしていることにある。世界の「中心」で悲しみが叫ばれるなか、「私」は辺境の地を辿り直す。作品からは、所与の世界像が崩れていく音が聞こえる。 なるほど、今もなお、黒川は始点からブレていない。最近の、自分の命の限りを知った新聞記者が戦争の輪郭を引き直す『暗い林を抜けて』も、兄の自死をきっかけに個人の生涯と大きな歴史が溶け合うように思い起こされる『ウィーン近郊』も、ひとつながりのものとして読める。はじめに全てがあるとはそういうことなのである。 ところで、巻末に鶴見俊輔が書きあぐねる黒川にかけた言葉が紹介されている。「世の中には、絶望しているフリーライターと、見込みのないフリーライターしかいないものなんだ」。評者は前者でありたいものだ。(ながせ・かい=書評家)★くろかわ・そう=作家。一九九九年、初の小説『若冲の目』刊行。著書に『かもめの日』(読売文学賞)『国境[完全版]』(伊藤整文学賞・評論部門)『京都』(毎日出版文化賞)『鶴見俊輔伝』(大佛次郎賞)など。一九六一年生。