頭木弘樹 / 文学紹介者週刊読書人2021年7月9日号ひきこもり国語辞典著 者:松田武己出版社:時事通信出版局ISBN13:978-4-7887-1718-3 たくさんのひきこもり当事者たちの言葉が、「あ」から「わ」まで国語辞典形式で載せてある。たとえば「運動不足」の項には「数年振りに笑ったら、次の日に頬のあたりが痛くなりました。顔の筋肉が筋肉痛になった(中略)。ひきこもりの運動不足とはこのレベルです」と書いてあって、笑ってしまった。共感の笑いだ。私も一三年間、ひきこもっていた。運動不足はまさにこのレベルだった。 と思うと、ひきこもりでも、夜中などに外を歩いている人もいる。「電車で数駅ぐらいの距離を平気で歩きます」という猛者さえいて驚いた。同じ「ひきこもり」でも、じつにさまざまなのだ。 すべての言葉を集めた監修者は、まえがきでこう書いている。ひきこもり当事者たちの「共通項を探すのは難しい」と。これがとても印象的だった。監修者は不登校情報センター代表で、二〇年以上にわたり二〇〇人以上のひきこもり当事者や経験者の中で暮らしてきたという。そういう人はたいてい、「ひきこもりとは○○なものなんです」という一般論を語り出すものだ。しかし、ひきこもりとは、そもそもそういう一般論からはみ出した、あるいははじき出された者たちだろう。「共通項を探すのは難しい」と語るこの人の言葉は信頼できる気がした。 ただ、彼はこうも書いている。ひきこもりは「人並み以上の感性」を持っていると。これが唯一の共通項なのかもしれない。持ち上げすぎのように思う人もいるかもしれないが、たとえば足を痛めると、いつもの通い慣れた道が、じつはでこぼこしていたり傾いていたりすることに初めて気づく。そのでこぼこや傾きは、健康な人たちには感じられないが、でも存在するし、じつはある日つまずいたのはそのせいだったかもしれないのだ。ひきこもりというのは、世の中のでこぼこや傾きにいち早く気づく、炭鉱のカナリアのような人たちなのかもしれない。だからこの本を読むと、たんに当事者の気持ちがわかるというだけでなく、誰でも自分の日常や人生を振り返ってはっとするところがあると思う。 たとえば身近なところでは、「大丈夫?」と聞かれると、相手が大丈夫と答えてほしいのだと察して、大丈夫と答えてしまうのだそうだ。そういう人、けっこう多いのではないだろうか。 責任感がありすぎるので、責任を背負うことはしたくないという人もいて、なんだかパラドックスの例文みたいだが、なるほどと目からウロコだった。 個人的に大いに共感したのは「三年寝太郎」の話。ひきこもっていると、昔話の「三年寝太郎」を引き合いに出されることがよくあるが、三年ならひきこもりとしては短い方だし、「三年寝太郎」のようにいつか活躍するわけではないので、「比べないでください」という言葉に、笑いながらうなずいた。 人から働きかけられるのはありがたいが、期待はしないでほしいと言っている人もいて、勝手な言い草に聞こえるかもしれないが、「期待してあげる」ことが必ずしも相手のためにならないというのは知っておきたい。期待という重さのない働きかけができる人間でありたいと思う。 4コマ漫画も入っていて(川柳とコラムも)、「ステイホーム優等生」というのがあった。ひきこもりはずっと心の病理のように言われてきたが、今や正しい生活の仕方となった。ひきこもってみて、意外にそのほうが自分に適していることに気づく人も少なくないようだ。川が適した魚もいれば、海が適した魚もいるように、部屋の中で生きることが適した人もいるのだと思う。(かしらぎ・ひろき=文学紹介者)★まつだ・たけみ=NPO法人不登校情報センター代表。教育関係の書籍の編集にも携わりながら、ひきこもり支援を行っている。一九四五年生。