――土地が内包する歴史をまるごと受けとめるまなざし――大塚真祐子 / 書店員週刊読書人2021年7月16日号小島著 者:小山田浩子出版社:新潮社ISBN13:978-4-10-333644-0 直線で示された畳、空間と空間の隔たり、入るのか去るのか、カバーをはずし全体図を確かめずにいられない装画は、これまで刊行された三冊と同様フランスのイラストレーター、フィリップ・ワイズベッカーによるものだ。白黒のリトグラフは奇妙な静寂に満ちているが、今作に収録された十四の物語のいずれも、思いのほか色彩にあふれている。ブルーシートの青、えんじ色の屋根、くすんだオレンジ色の上着、なかでも「ヒヨドリ」と「ねこねこ」に描かれた赤の印象は強い。〈薄赤い、血の膜のようなもので覆われた、濃いピンクと茶色が混じったようなもの、少しハート形にも似て、片側はやんわり尖っているがもう片側の先はやや平らかな形をしている。〉(「ヒヨドリ」)〈翌日、夫の妹夫婦の子供のお下がりを受け取るために車ですぐの夫の実家へ行くと下がコンクリで固めてある駐車場に赤黒い小さいぐしゃっとしたものがたくさん落ちていた。〉(「ねこねこ」) 前者はベランダにやってきたヒヨドリのヒナと夫婦をめぐる短編、後者では公園で遭遇した生き物が猫なのか猫でないのか、〈私〉と娘の認識の相違から世界がねじれていく。ハート形の物体が何かは不明のままで、〈赤黒い小さいぐしゃっとしたもの〉は鳥の糞であると作中で説明されるが、その生々しさと得体の知れないものへの恐れは変わらない。どちらも鳥にまつわることから、「工場」に登場する〈工場ウ〉や「庭声」の鶴などを、小山田作品の読者なら咄嗟に想起するだろう。鳥のみならずさまざまな獣や虫や植物が、物語を養分にしてうごめき、繁殖するさまは今作でも存分に描かれている。 が、それらと手ざわりを異にするのが、まず表題作の「小島」である。〈私〉は豪雨災害にみまわれた土地へボランティアに赴く。作中の会話から、二〇一八年の西日本豪雨で被災した広島らしいとわかるが、実在する固有の土地や、土地にまつわる実際の出来事が、それとわかる形で共有されたことに驚いた。これまでの作品において著者は、見えている日常や現実の位相を、人間以外の生物を媒介にしながらずらしていくというセオリーを確立したが、そこに固有の事象や場所が介在したことはない。「小島」で著者が、その方法論をいったん手放したのはなぜなのか。〈私〉は、被災した土地と土地を行き交う人々を観察する眼をもち、そこで起きていることに感情や判断を加えようとしない。体験の具体的な描写を緻密に重ねることで、平時なら闖入者である〈私〉とボランティアの面々を、物語の地中へ静かに埋めようとしている。それはおそらく著者が広島を拠点とする作家として、災害を目の当たりにしたからだ。日常はもちろん、生物も自然も根こそぎさらわれた土地に物語という枠を立てることが、実際に起きた災害と向き合う著者の姿勢であり、土地が内包する歴史をまるごと受けとめる著者のまなざしなのではないかと思う。 作品の終盤、ボランティア先の家主の女性がさしだす鶏頭の朱赤は、前述の赤とはまた別の鮮烈な像を刻むが、この作品集には他にも、著者が熱狂的なファンであるという広島カープを題材にした小説が三作収録されており、異彩をはなっている。広島カープのチームカラーは赤色だ。 作品集の最後に収録された「はるのめ」は祖母の家の庭にながれる時間と、その景色を描く。小学生になる春からこの家に越してくる予定の〈私〉は、庭先で見つけた家の形の置物に向かって、春が来ないように、この家が自分の家になりませんようにと祈る。それはめぐりつづける季節のほんのひとときにすぎないが、ひとときの重なりの合間に、生き物のいとなみがあり、生き死にがあることを、物語の結びで鮮やかに切りとってみせた。〈子供の指はあらゆる色を集める。「もう春が始まっとるんよ」始まっとるねえ、そうねえ、多分私が生まれてからずっと、その前からもこれからもここでもそこでもどこでも、始まりが始まり続けている。〉(「はるのめ」)(おおつか・まゆこ=書店員)★おやまだ・ひろこ=作家。「工場」で新潮新人賞を受賞しデビュー。同作を収録した単行本『工場』が三島由紀夫賞候補、織田作之助賞受賞。「穴」で芥川賞受賞。他の著書に『穴』『庭』がある。一九八三年生。