――日常世界の視線に立つ実践知、領域化した学知への批判――吉原直樹 / 横浜国立大学教授・東北大学名誉教授・社会学週刊読書人2021年2月19日号聖諦の月あかり著 者:山本哲士出版社:文化科学高等研究院出版局ISBN13:978-4-910131-04-7 本書は、著者山本氏の諧謔に富み、たぶんにアクロバティックな知の逍遥を思い切り写映したエッセイ集である。しかも全篇をつらぬく興趣あふれる筆致がこの上ない珠玉の作品に仕立てあげている。しかし著者に特有の修辞法が容易にアクセスできない壁となってわれわれの前に立ちはだかっている。だから評者は、早い段階で体系的に読むことを断念し、気分の赴くままにきわめて恣意的に読むことに徹した。それにしてもエッセイ集としては一見軽やかにみえて、かぎりなく深くて重いのである。 たまたま、並行してブリュノ・ラトゥールの『社会的なものを組み直す』を読む機会を得た。そしてそこで、「アクター-ネットワークは、アクターをつなぐネットワークなのではなく、アクターがネットワークなのである。そして『理論』もまた、変換や媒介の連鎖に加わる『アクター』であり、つまりは『アクター-ネットワーク』なのである。」という訳者の解説に出くわした。そこですぐさま思いついたのは、なあーんだ、そんなことなら、山本氏がすでにいっていることではないか、ということであった。 山本氏はこの間、「述語制」と情緒資本という言葉を創案し、それらをホワイドヘッドがいうような「共軛(cogredient)関係」の下で論じてきた。そしてそれらを言語領域を越えて、科学技術や資本経済、さらに環境デザインや統治などの境位を定めるのに積極的に援用してきた。その適用範囲がいまやおそろしく広がっていることは、本書を一目みただけでわかる。そこでは明らかに、近代の科学思考の基層をなしているパラダイムの根本的な組み換えがめざされている。それはひとことでいうと、「分節化でもない統合でもない。世界に向かう種差性の理論構成」(六一三頁)への転回ということになるが、その基本線をなすのは、世界の「外」に超越する主体でもなければ、(日常的生活に足を下す)世界内存在としての主体でもない、評者の勝手な思い込みでいえば、デランダのいう「アサンブラージュ」のようなものである。 評者自身、それと相同的にアーチャーのいう「アフォーダンス」やムフのいう「アーティキュレーション」、さらにアーリのいう「創発特性」などを思い浮かべるが、評者がより注目するのは、そのことよりも、むしろその背後に広がっている著者の卓抜した知的世界の構想力とそこに組み込まれた、人びとの日常世界に思いをいたすしなやかな感覚である。山本氏は内に閉じられた、領域化された学知を徹底的に批判する。そこに社会に響かない、ゆがんだシニシズムの極致を観てとるのだ。 本書を読めば、そうした批判的作法の原型が文学、とりわけ抒情に親しんだ一〇代において形成され、大学時代の実践的活動と連動したテキスト・クリティークを通して練磨され、メキシコ留学において一つの「かたち」となったことがわかる。そこでは、学知は一貫して反面教師としての意味しかもたず、再帰的契機さえ与えるものではなかった。評者のように、学知にどっぷり浸かってきた者からすれば、身を削られる批判であるが、それが今日の学知のありようをきわめて適切に衝いていることはたしかである。 だが山本氏の傑出している点は、そうした批判的作法よりは、むしろその向うに、人びとの日常的世界の視線にたつ、やさしく、かつ愉しい知の世界を構想し、それを実践知として展開していることである。それは権威主義的な学知の下で喪われたしなやかな知性の復権をめざすものでもある。ただ、山本氏はその企てを「聖なる諦め」という言葉を用いながら、実にエレガントにこころみようとしている。本書を世に問うことを可能にした文化科学高等研究院は、ある意味でそうしたエレガントな知性の獲得に照準をあわせているが、それを情緒資本論で裏打ちしようとしているところに、山本氏に特有のスタンスを観てとることができる。情緒資本論の核をなしているのは、私の読みでは、高雅な遊びをともなう教養の追求ゆえに派生せざるを得ない聖諦、つまりある種の含羞である。 本書を読めば、知の冥府としての大学がいまや死にかかっていることを、いやがおうにも知ることになるだろう。本書は、高雅な教養の遊びもなく、人間の精神性に深く根ざした情緒も持ち合わせていない「精神なき専門知=学知」に支配されている大学にたいする解体宣言であるといえよう。(よしはら・なおき=横浜国立大学教授・東北大学名誉教授・社会学)★やまもと・てつじ=文化科学高等研究院ジェネラル・ディレクター。一九四八年生。