本橋哲也 / 東京経済大学教員・カルチュラル・スタディーズ週刊読書人2020年6月5日号(3342号)アメリカン・ミュージカルとその時代著 者:日比野啓出版社:青土社ISBN13:978-4791772612フレッド・アステア、ジンジャー・ロジャース、ジーン・ケリー、ジュリー・アンドリュース、オゥドリー・ヘップバーン、レックス・ハリスン、リチャード・ロジャース、オスカー・ハマースタイン・ジュニア、レナード・バーンスタイン、スティーブン・ソンダイム、ジェローム・ロビンズ……アメリカ合州国のブロードウェイの舞台やハリウッドの映画で世界中の人びとを虜にしてきた、これら綺羅星のごとき俳優や作詞家・作曲家・振付師たちは、独特のスピードと強弱と抑揚とリズムを持った日常的なアメリカ英語によるミュージカルを、それまでのヨーロッパにおけるオペラやオペレッタ、あるいはリアリズム演劇に代わる芸術ジャンルへと押し上げた。彼ら彼女らが活躍した一九四〇年代から六〇年代は、しばしば「アメリカン・ミュージカルの黄金期」と呼ばれる。本書はこの時期のミュージカルを題材とした、日本語圏で書かれた、おそらく最初の真正な研究書である。評者のそうした想定には、いくつかの理由がある。これまでの日本語によるミュージカル本は(残念ながら拙著も例外ではない)、日本における演劇批評全般の動向を忠実に反映して、役者や作品内容に耽溺して枝葉末節に拘るか、文化表象理論に依拠して大鉈を振るうかの両極に分かれており、結局は「作品とその時代」という「他者」ではなく「自己」を語ることに落ちていたという意味で、批評の名に値しないものが多い。それに対して本書は、先行研究の渉猟と批判という研究の基本的な手続きを踏みながらも、歴史的文脈と他者に対する意識を鮮明にすることによって、批評の根本原理である独自の解釈を説得的に提示することに成功している。その意味で、凡百のミュージカル本が自己中心的な「恋」を表明しているに過ぎないのに対し、この本には他者への尊重と感謝を原動力とする「愛」が溢れているのだ。『マイ・フェア・レディ』のイライザが舞踏会の興奮に憑かれて、実現不可能な夢と願望を託して「仮定法過去完了」で「一晩中踊ることだって出来たかもしれない」と唄うように、まさに本書は「アメリカン・ミュージカルを愛することだって出来たかもしれないのに」という、私たちにとって現実には不可能な願望充足の夢を実現してくれるのである。 アメリカン・ミュージカルが「遅延効果」というコメディの定石を踏まえているという王道の議論から始まる「序章」は、「アメリカン・ミュージカルの黄金期」という評価がいったいどのように正当化できるのかをめぐって、詳細な検討に及んでいく。そこでの議論の要諦は、アメリカン・ミュージカルと、それ以前のレチタティーヴォとアリアからなるヨーロッパ産のオペラとの差異、およびアメリカン・ミュージカルと、それ以降の(『ジーザス・クライスト・スーパースター』『キャッツ』『オペラ座の怪人』『レ・ミゼラブル』に代表されるような)メガスペクタクル・ポップ・オペラとの差異がどこにあるのか、という問題だ。著者によれば、そこでの要点は、前者のようなオペラとアメリカン・ミュージカルを区別するのは「リアリズム」であり、後者の場合にはアメリカン・ミュージカルを特徴付けている「ゆがみやひずみ」である。それが「黄金期ミュージカル」における物語と音楽、すなわち台詞劇のリアルな舞台設定と時間秩序、および複数の時間と空間を横断する音楽の力との「統合」という「いいとこ取り」(四三頁)という著者独自の評価に繋がっているのだ。 これだけでも私たちは「アメリカン・ミュージカル」の本質について、多くの洞察を与えられるが、さらに圧巻なのは、テクストの詳細な読解と時代状況の鋭利な分析とがまさに「統合」された一章以降の作品論における文化研究の精華だろう。大別して第一部「映画ミュージカル」と第二部「舞台から映画へ」と分かたれているが、いずれの章においても分析の鍵となる文化的言説が明確に提示され、それが無理なく作品の細部解析に結びつけられる。たとえば、『気儘時代』における女性の性的欲望の管理という「俗流フロイト主義」の適用。『雨に唄えば』における「リアリティの重み」と現実の忘却との両立という「寓話」の意義。『掠奪された七人の花嫁』における核戦争の脅威に怯えるアメリカ社会の「冷戦的思考」の刻印。『オクラホマ』における個人の欲望を監視・制御する「生政治」のメカニズム。『南太平洋』における交換の継続を終わらせ(アジア人との)恋愛の不可能性を示す「象徴交換の結果としての死」。『マイ・フェア・レディ』における二つの感情表現の矛盾が(下層階級女性という)弱者の報われない「感情労働」の形象化であること。そして『ウェストサイド物語』における「ユダヤ性の抹消」とプエルトリコの女たちの前景化という人種と民族の(誤)表象。どれをとっても、それらが単なる思いつきでも理論の濫用でもないことは、本書の明快な記述が明らかにするとおりだ。イギリス発のメガスペクタクル・ポップミュージカルが舞台でも映画でも世界を席巻し続けている現状において、アメリカン・ミュージカルを愛することの喜びと困難とを「仮定法過去完了形」で論じつくす本書は、過ぎ去った良き時代への懐旧や果てしなき欲求の連鎖を超えた、他者への愛を私たちのなかに再生させてくれる。(もとはし・てつや=東京経済大学教員・カルチュラル・スタディーズ) ★ひびの・けい=成蹊大学文学部教授・アメリカ演劇・日本近現代演劇を中心とする演劇史・演劇批評。著書に『戦後ミュージカルの展開』など。一九六七年生。