――中心に向かって深まっていく新約聖書論――大貫隆 / 東京大学名誉教授・新約聖書学・古代キリスト教文学週刊読書人2021年1月29日号どう読むか、新約聖書 福音の中心を求めて著 者:青野太潮出版社:ヨベルISBN13:978-4-909871-31-2 キリスト教の中心は?と聞かれれば、「キリストは人間のもろもろの罪を贖うために、尊い血を流して死んでくださった、という贖罪論でしょ」というのが、大方の答えであろう。ところが、本書の著者は、これではイエスは全シナリオを予め承知し、最期まで準備万端整えた上で演技する「役者」になってしまう、と言う。反対に、著者が何より目を注ぐのは、通常「贖罪論」の権威とされるパウロが、生前のイエスの言動に深く思いを馳せていた事実である。イエスの生涯は「第一義のインマヌエル(神、われらと共にいます)」(故滝沢克己)を生き抜くものだった。すなわち、神が太古から人間のあらゆる罪を無条件でゆるし、すべての苦難、悲嘆、弱さの中で「われらと共にいる」という根源的事実を指し示すものだった。 生前のイエス自身には「贖罪死」への意図は皆無だった。最期の十字架上の絶叫は事前のシナリオなしの、リアルな恐怖と苦悩から出たものだった。パウロはその無残な最期に、前述の神の逆説を感じ取った。それは、イエスの十字架が彼の外側で起きた志向性ゼロの出来事でありながら、意図せざる形で、パウロの内面に呼び起こした応答である。このあたりの著者の論述には、弾かれた一本の弦が隣の弦を「共振」(共鳴)させることを想わせるものがある。その時、イエスの十字架は、パウロにとって、根源的な罪(エゴイズム)に呪われてきた自分に向かって、神が発した「ゆるし」だった。それをパウロは「御子がわたしに啓示された」、「わたしは復活したキリストを見た」と言い表す。その御子は、復活の後も、パウロにとって、「十字架につけられたまま」の顔をしている。パウロはその後の苦難の実存をその顔に重ねて生きて行く。反対に、もしイエスが全シナリオを予め承知し、見事に「贖罪死」を演じたのだとしたら、一体だれがそんなアンリアルな役者に、苦難を乗り越える力を鼓舞されるだろうか、と著者は問う。 それゆえ著者は、十字架上のイエスの苦しみに、自分自身の苦しみを重ね、イエスは「自分に先がけ、自分に代わって」同じ苦しみを苦しんでくれたと「感じ」取る、そう、共振することに、非を唱えているのではない。ただ、それを「贖罪信仰」とは呼ばないのである。なぜなら、その瞬間に、イエスがまた「役者」になってしまう危険が芽生えるからである。さらに言えば、イエスに重ねられる苦しみには、「罪」なき、理由なき苦しみもあるからである。著者が最近のわが国を襲った自然災害に繰り返し言及するのは、そのためである。 本書は、もともと牧師養成機関での夏期講習で行われた講義に基づいている。取り上げるテーマも予め指定されていた。そのため、専門研究から見ると、いくつか重要な論点が抜けているのもやむをえない。論述は大小さまざまな半径の円環を為しながら反復される。その半径は次第に狭まり、文字通り旋風(サイクロン)のように、「イエスとパウロ」(第四章)という中心に向かって深まって行く。そこではイエスの「神の国」の宣教が、パウロの十字架の神学の視点から、「第一義のインマヌエル」に向かって非神話化される。圧倒的な求心力に満ちた新約聖書論である。(おおぬき・たかし=東京大学名誉教授・新約聖書学・古代キリスト教文学)★あおの・たしお=西南学院大学名誉教授・新約聖書学・最初期キリスト教史。平尾バプテスト教会協力牧師。スイス・チューリッヒ大学神学部博士課程修了。神学博士(Dr.theol.)。著書に『パウロ 十字架の使徒』『「十字架の神学」をめぐって』、訳書に『パウロ書簡』など。一九四二年生。