――賢人は旅において本性を表わす―― 山本建郎 / 秋田大学名誉教授・哲学週刊読書人2017年4月28日号オデュッセウスの記憶 古代ギリシアの境界をめぐる物語著 者:フランソワ・アルトーグ出版社:東海大学出版部ISBN13:978-4-486-01950-3本書は『オデュッセイア』の神髄に迫る斬新な著作である。『オデュッセイア』は『イーリアス』と並んでホメーロスの二大叙事詩として古代ギリシア文明の幕開けを飾る抜きんじて著名な古典であるが、それだけにその権威の故に掘り下げた批判的な研究が為され難かった作品である。それが二十年余り前にフランスの気鋭の歴史家アルトーグ氏により上記の表題の下に現代の読書界の要請にも十分に叶う研究書(読書家の歴史的関心に応える高度な教養書)として世に問われたのであるが、この度ようやく上記の葛西、松本両氏の手により日本語でも読めるようになったことは、何にも増して喜ばしい。 本篇は、序章(「旅する人と境界人」)と終章(「アポローニオスの記憶とピュータゴラースの名前」)の間に全五章を挟んだ構成で論じられているが、その四章までが旅にまつわる論述であり、唯一第3章のみも旅を前提とした「バルバロイの発案と世界の目録」である。この構成からは一見著者の旅に対する思い入れが感じ取られるかも知れないが、そのように月並みな予想とは裏腹に、本篇は全篇が旅を装う比較文明論の発想で叙述されているのである。この点を見逃してはならないことを、まず書評子としては最初に指摘しておきたい。 第1章では「オデュッセウスの帰還」の表題の下に、稀有の長旅から帰還したオデュッセウスの旅行体験記の有様が淡々と語られる。その内容はオデッセウスが語っているとしても通用するはずのものであるが、これが見者を装う著者の視点からの評言なのだ。ここには客観化を期する著者の配慮が伺われる。 第2章以下は、「エジプトの旅」、一章措いて「ギリシアの旅」、「ローマの旅」と続く。ここではそれぞれの章から典型的な叙述を為すと思われる箇所を採り上げて検討しよう。 まず、順序通りに、「エジプトの旅」から始めよう。周知のように、エジプト文明は、古代ギリシアをさらに数世紀も遡る別格の完成度を示す古代文明である。それでも、驚いたことに(あるいは当然事として?)、著者によれば、「エジプトのロゴスをそれ自体としてではなく『歴史』が切り開きこの作品を貫く区別、ギリシア人とバルバロイの区別との関係で考慮するならば、やはり、不可避的にバルバロイの側に属する」。もっとも、「バルバロイは野蛮状態を意味しない。言語の違い、すなわちギリシア語を話さないこと、王の下に服して生きることを意味する[だけな]のである」が(p.117)。 第4章の「ギリシアの旅」は、「ギリシア人の他者理解をもう一つの側面から見るために、我々はギリシア人が自己に向けた視線のいくつかをとらえてみよう」に続いて、まず「元祖アナカルシスの旅と境界の忘却」が14頁に亘ってかなり詳細に論じられる(もっともアナカルシスはスキュタイ人であり、「スキュタイからギリシアに放浪してきたバルバロイの一人であった(p.216、それでも彼はアテーナイの市民簿にも登録されディオゲネース・ラーエルティオスによって七賢人の一人に数えられているが)。著者によれば、「アナカルシスが『身体は魂の道具であり、魂は神の道具である』というとき、彼はもはやスキュタイ人では全くなくプラトーン派の賢人であって、プルータルコスその人の考えに近く、その代弁者と言ってもよい」のである(p.226)。 結論部を為す第5章の「ローマの旅」では、本書の影の主人公でもあったポリュビオスに照準が当てられて、総括的な締め括りが為される。「新しい空間、新しい時間性、新しい歴史性の体制、これがポリュビオスの企ての知的な意味での存在理由である。…(中略)… この変化は、ポリュビオスによれば運命の女神の為せる業であるが、その変化への対応が世界史となるのである。(後略、ここでは歴史家の自負がポリュビオスの引用とともに熱っぽく語られる)」(p.317)。歴史家には珍しいこの思弁的な言辞も、やはりヨーロッパ文明の蓄積の為せる業なのであろうか。哲学の畑を耕す筆者をもふと立ち止まらせしめる一文である。 本篇には、十四頁にも亘る長い日本語版への序文「オデュッセウスは空間と時間を背負って帰って来た」が付せられている。この序文は著者の好意によるものであろうが、これがまたレトリックに富み難解で、例えばオデュッセウスの帰還を「こうして自己と自己が一致しないこの基本的な経験、過ぎ去った時間の確認という平凡な経験とは異なるそれを、私は「歴史性」と呼ぶのである。オデュッセウスをとらえたのはこの基本的な、実存的な不一致であり、彼には過去の自分と現在の自分を架橋する、すぐにも使うことができるような過去という概念がなかったため、彼は泣き出したのである」という一文もある。当たり前の生活感覚をこのようなレトリックでさりげなく表明する処にも、著者の並々ならぬ才人ぶりが垣間見られてほほえましい。 なお、訳文は明晰にして判明、巻末に揚げられた訳者両人による三十四頁にもわたる「解説」と「長い謝辞」も、翻訳者と著者の深い交流の結果を示すものとして、本書の価値を確固たらしめている。(やまもと・たつろう=秋田大学名誉教授・哲学)★フランソワ・アルトーグ=フランス国立社会科学高等研究院研究主任。主にギリシア古典を研究対象とする。邦訳書に「「歴史」の体制」ほか。一九四六年生。