到来する政治を理解するための手がかりとして 長島皓平 / 慶應義塾大学大学院・政治思想・政治哲学週刊読書人2022年1月21日号 王国と楽園著 者:ジョルジョ・アガンベン出版社:平凡社ISBN13:978-4-582-70348-1 なぜ楽園なのか。『ホモ・サケル』(高桑和巳訳、以文社、二〇〇三)以来の生政治批判で注目を集め、近年では『私たちはどこにいるのか?』(高桑和巳訳、青土社、二〇二一)においてまとめられた数々の論考からも知られるように、アクチュアルな政治状況に対して発信を続けてきたアガンベンが論じる古色蒼然たる主題の数々に、戸惑う向きもあるかもしれない。だが、原罪や恩寵、人間本性といった本書で取り上げられるテーマは、これまでの多くの主題と同様に衒学趣味とはかけ離れた政治的な意義を有している。『王国と栄光』(高桑和巳訳、青土社、二〇一〇)においては王国が三位一体の教義を通じて世俗権力に与え続けた影響が分析されていたのに対し、本書では根本的に政治的なはずである楽園が世俗権力とは無関係とされてきた事態を検討することで神学・政治的パラダイムの問題が詳らかにされる。概観しよう。 『創世記』の園をめぐる語源的思索を手掛かりに、アンブロシウスらの論考を通じて、楽園が本来分裂を内包したものではなく、キリスト教神学が楽園からの追放を人間の条件の決定的な出来事かつ救済の摂理の基盤としたとアガンベンは述べる。 そうした潮流の代表としてのアウグスティヌスがパウロを注釈しつつ原罪の教義を論じ、教会とその秘蹟の必要性を主張していることが詳らかにされる。本来の自然からの堕落という歴史を導入することで救済と摂理を正当化するアウグスティヌスにおいて、全人類は罪を背負ったかたまり(massa)であり、楽園は罪の機会を提供するものに過ぎない。こうして楽園は周縁に位置付けられる。 この正統に対比されるのが異端のエリウゲナとトマスの焼き直しと評されてきたダンテである。アガンベンはエリウゲナの秘教的な読解を通じて、その重要性に着目する。エリウゲナによれば、動物・神・人間全ては単一の生命活動に包括されており、アウグスティヌスの主張に反して楽園とは人間本性として常に在るのだという。また、アガンベンはダンテがスコラ派哲学者たちに比して劣るかのような定説に疑問を呈し、ダンテこそが自己自身の力を活動させることに起因する至福、すなわち地上楽園たる愛を見出したという。受肉により原罪は抹消されると考えるダンテは、ベアトリーチェという人間本性の「究極目的」である愛の至福の形象を玉座の上に据えることで、幸福と結びついた自由意志を救い出す。 最後に、トマスによる人間本性の定義と、アウグスティヌスによる楽園の肉体の定義を検討することで罪こそが人間本性を分割し、自然と恩寵が一体化することを妨げる装置であると捉え、エリウゲナとダンテがこの教理に対する反駁の試みとして位置づけられる。教会の必要性を導くアウグスティヌスらに対し、王国の到来こそが本義であったとしてアガンベンは自身のメシアニズムに接続することで議論を閉じる。 長年にわたりアガンベンの翻訳と研究を牽引してきた碩学による訳文は正確かつ明快であり、今なお精力的に執筆を続けるアガンベンの著作をまた一つ日本語で読めることは喜ばしい。アガンベンの数十年にわたる著作群を鳥瞰しつつ、『カルマ』や『悪の神秘』といった近年の著作との関連をも踏まえた訳者解説は、より深い理解を助けてくれるだろう。 付言すれば、本書のもう一つの要諦は政治神学をめぐるアガンベンの立場である。神学が政治を規定するのでもその逆でもなく、神学と政治を同一平面上の抗争としてアガンベンは理解する。王国と楽園をめぐる神学・政治的構成を背景にエリウゲナとダンテを取り上げることで、装置から解き放たれた政治のヴィジョンを救いあげる試みはこの理解を前提としている。語弊を恐れずにいえば、スピノザ的でありながら微妙に趣を異にするエリウゲナやダンテの思索における単一の生や幸福といったテーマが、アガンベン自身が描く到来する政治を理解するための手がかりにもなり得るのだろう。(岡田温司・多賀健太郎訳)(ながしま・こうへい=慶應義塾大学大学院・政治思想・政治哲学)★ジョルジョ・アガンベン=イタリアの哲学者・美学・言語哲学・政治哲学。著書に『中味のない人間』『事物のしるし』『裸性』など。一九四二年生。