――エクリチュールの何が問題だったのか――松田智裕 / 立命館大学文学部初任研究員・フランス哲学週刊読書人2020年11月6日号スクリッブル 権力/書くこと著 者:ジャック・デリダ出版社:月曜社ISBN13:978-4-86503-099-0 エクリチュール(書くこと)というと、いかにも深遠なことを語っていそうで、その実、内容のない魔法の言葉と映るかもしれない。西洋の歴史における「声の特権」を問題視し、エクリチュールに依拠して新たな思考の可能性を問おうとしたデリダの『グラマトロジーについて』(一九六七年)が、近代的な世界の捉え方を「音声中心主義」として断罪するだけの空虚な試みであるという批判は、これまでにも度々あったし、今も根強くある。結局、エクリチュールということで何が問題だったのか。グラマトロジーとは一体何だったのか。本書は、こうした問いを改めて考えるための有力な手がかりとなるだろう。 本書には、デリダの「スクリッブル――権力/書くこと」とパトリック・トールの「形象変化(象徴的なものの考古学)」という二つの論考が収められている。これら二つは、絵文字からヒエログリフを経てアルファベットにいたる文字の歴史的な発生を考察したウィリアム・ウォーバートンの『エジプト人のヒエログリフに関する試論』(以下『試論』)のフランス語訳(一九七七年)に序文として掲載された。デリダとトールの論考の主眼は、『試論』の読解をとおして、一七・一八世紀ヨーロッパのヒエログリフ論争における「書くこと」と「解釈」の身分、さらにはエクリチュールと政治権力との結びつきを考察する点にある。 なぜ、権力が問題になるのか。デリダとトールが出発するのは、エジプトにおける「筆記者(scribe)」と「篩(crible)」 のアナロジーである。エジプトにおいて「筆記者」はインクとパピルスによって知識を書き記す人々のことだが、「筆記」はまた、篩という農耕的な道具が善い穀物と悪い穀物を選別するように、善と悪とを分離する営みでもある。このアナロジーは、書くことが対象をある格子や枠組みに組み込むと同時に、そこからこぼれ落ちるものを除外し、隠蔽する権力の契機と不可分であることを示している。では、書くことにおけるこうした政治性をどう考えたらよいのか。そして、それを解釈することも選択と除外を伴う暴力的な契機を孕んでいるのではないか――こうした問いかけがデリダとトールの論考の通奏低音となる。 トールの論考は、文字の発生をめぐるキルヒャーやプルーシュ、ウォーバートンの論争の争点を刻銘に描きだしており、一七・一八世紀ヨーロッパの神学とヒエログリフ問題の関係を考えるうえで興味深い。デリダの論考も、『グラマトロジーについて』との連続性をはっきりと感じさせる。グラマトロジーとエジプト学という組み合わせは一見唐突に見えるが、『グラマトロジーについて』が元々は、マドレーヌ・V・ダヴィッドの『一七・一八世紀におけるエクリチュールとヒエログリフに関する論争』とルロワ=グーランの『身ぶりと言葉』へのレビューとして成立し、ウォーバートンはもちろん、キルヒャーやフレレ、ライプニッツをとおしてエクリチュールの身分が問われていたことを想起するなら、本書に収録されたデリダの論考は一九六〇年代のエクリチュール論の延長線上にあると言えよう。また、要所要所で付された訳注と、ウォーバートンのヒエログリフ論の背景やデリダとトールの論考についてわかりやすく解説した「訳者あとがき」は読書の助けとなるだろう。こうした貴重な資料を日本語で読めるようにしてくれた訳者の努力に心から敬意を表したい。(大橋完太郎訳)(まつだ・ともひろ=立命館大学文学部初任研究員・フランス哲学)★ジャック・デリダ(一九三〇―二〇〇四)=フランスの哲学者。フランス領アルジェリアに生まれる。エコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)卒業後、同校で哲学史を教える。「脱構築」「差延」の概念で知られる。一九八三年に創設された「国際哲学コレージュ」の初代議長を務める。著書に『声と現象』『グラマトロジーについて』『哲学の余白』など。