切通理作 / 批評家週刊読書人2020年4月10日号(3335号)ポスト・サブカル焼け跡派著 者:TVOD出版社:百万年書房ISBN13:978-4-910053-12-7ポピュラーミュージックの歌い手が「キャラクター」として、いかに時代を象徴していたのかを検証する、一九八四年生まれの著者二人による対談集。七三年以降がたどられていくが、普通だったら思いつくような、陽水、ユーミン、RC、長渕といった名前は大きなトピックにならず、矢沢永吉、続いて沢田研二からはじめられる。音楽性そのものよりも、自らの商品化を厭わず、カウンターカルチャーではなくサブカルチャーとして確立したありように注目しているからであろう。 以後坂本龍一、ビートたけし、戸川純、江戸アケミ、フリッパーズ・ギター、電気グルーヴ、XJAPAN、椎名林檎、KREVA、バンプ・オブ・チキン、星野源、秋元康、そして結論部的にある種別格な存在として大森靖子が取り上げられている。 七〇年代初頭までにあった、政治的言説の前での「自己否定」という強迫や、情念的な重さからの反動もあり、個人消費に内閉した「一億総中流社会」の聴き手。彼らの中で、バーチャルな「広場」のオピニオンとなっていったアーティストたち。 ある者は、アイロニーの中で次第に表面化する自意識をもてあます苦悩にさらされ、ある者は、戯れの快楽や身体性に注目して自分自身をチューニングすることで生き延び、ある者はノスタルジーとしてのセンチメンタリズムを温存しながら、「主体」なきシステムという無責任に加担する。 それらに、時代の速い流れと競争しながら個人のありようを示した意義を認めながらも、社会の側の矛盾に向き合うことから、どこか身をそらしていたのではないかと、この対談は鋭く浮き彫りにする。結果、資本主義で用意された中にある脱色化された現実しか知らない後続世代を生み出し、かつ捨象された歴史に(ネトウヨ的な)大時代的な物語が無批判に代入されやすい状況を招いてしまった。 しかし、そんな時代はもう「終わって」いる。リーマン・ショック以降、暗黙の了解であった「決められた現実」としての中庸は瓦解し、かつネット社会の普及は、一般人も、自らなんらかの「キャラクター」を帯びてものを語るのが当り前になっていった。つまり、彼岸としての「広場」はもう確保されていない。 そんな中で、かつてはアーティストたちに託していた「キャラクターの確立」を、各々がする、いわば戦国時代への覚醒を読者に促す書にもみえる。 しかし現在三〇代である著者二人は、おそらく生育期から繰り返し言われてきたであろう、自らの特色や能力を、キャッチーに語れるような人間にならなければいけない……というような、一見自立のススメ的だがその実社会にアピールする内面の在り方を強制し、そうできない人間を「自己責任」とするような姿勢にも反旗を翻そうとしている。 たとえば「自然体にふるまう」というときの「自然にみえる」というありようも、実は「あらかじめ対人的な存在としてふるまう」ことによって表現できているのかもしれない。 そうではなく、浮いて見えようが人工的に見えようが、まず自分がどう自分に似合うカタチを追及していくのかという問題意識を前提にし、それを各々が他者に認めさせる。言い換えれば、お互いの「孤独」を認め合う……ことこそが、他人と共に生きていくことではないのか?……という希望の曙光を、本書は見ようとしているのである。 そのことによって、個人は必然的に社会とも向き合うことになる。日本社会ではもともと支配的だと言われる、相互に空気を作り、浮いた者を指弾するムード。これがますます進行しているかにみえる中で、眼差しの地獄に抗う可能性を提示しているのである。 著者二人は男性であると思われるが、フェミニズムを意識し、「男の子」文化にあるミソジニー性の自覚的な乗り越えも主眼に据えている。フェミニズムは単に女性解放を意味するだけでなく、対人的な自己確立をお仕着せと感じる心情を、身体性の軋みからリアリティあるものとして再獲得する試みであり、当然ジェンダーを越えて、与えられた呪縛からの解放を促す。 その意味でも本書は、音楽芸能史の一つの側面を振り返りながら、読者一人一人にとっての、真の自己確立を予感させる「破れ目」を、そこかしこに見出すことが出来る思索の書となっている。(きりどおし・りさく=批評家) ★TVOD=コメカ(早春書店店主)とパンスによるテキストユニット。「サブカルチャーと政治を同時に語る」活動を、様々な媒体にて展開中。