――近年の東浩紀の思想を理解するために最適の二冊――倉数茂 / 作家週刊読書人2020年7月10日号(3347号)新対話篇著 者:東浩紀出版社:ゲンロンISBN13:978-4-907188-36-8一九九八年に『存在論的、郵便的』が大きな話題を呼んで以来、東浩紀の言動はつねに注目の的だった。メルマガの「波状言論」やised(情報社会の倫理と設計についての学際的研究)を主催していた二〇〇〇年代前半、あるいはいわゆるゼロ年代批評を牽引していた後半を通じて、東は批評界における果敢なチャレンジャーであり、活発な論争を引き起こす台風の目だった。その間、彼は一貫してインターネットによるコミュニケーションとサブカルチャー、すなわち、2ちゃん、ニコ動といった新興プラットフォームと、美少女ゲーム、ライトノベルなどの周縁的ジャンルの味方だった。彼はいつでも未来と速度の側にいた。コミュニケーションの在り方に、主体の構成に、コンテンツの受容スタイルに、大きな不可逆的変化が起きようとしている。彼はずっとそう主張してきた。そこに若い世代から支持され、批評界のゲームチェンジャーたりえた理由があるだろう。 しかし二〇一一年の震災をメルクマールに明らかに東の主張は変わってきている。その様子は今度刊行された二冊の本──対談集とインタビュー集──からもはっきりと見てとれる。『哲学の誤配』に収められた二つのインタビューがいい例だ。どちらも韓国の読者向けに行われたものだが、それぞれ二〇一二年と二〇一八年と六年の間隔を置いていることで、明らかにウェイトの置き方が変わってきているのが見えるのだ。最初のインタビューで東は、これまでの議会制民主主義を情報技術で補う可能性を肯定的に語っている。ネットが社会の意志決定を変える。なぜならネットならば媒介なしに個人の感情や意見を集約することができるからだ、と。しかし二〇一八年の東は、我々が過剰に政治へと急き立てられていることを懸念している。ネットは人々の意見を単純化し、無用の対立と論争を煽り、報道される日々の出来事に対して、右か左か、善か悪かの立場表明を強いる。それに対し東が対置するのは時間のかかる「無駄話」である。「哲学はつねに一見無駄と思われるところにある」。時間をかけ、生身の身体を持ち寄って、結論が出るかわからない会話を続けること、性急に答えを求めず、複数の可能性を信じること。速さから遅さへ、ネットからリアルへ。 『新対話篇』はそうした主張そのものの実践と見ることができるだろう。ここには齢八七歳の梅原猛から四十二歳の國分功一郎まで(ほとんどが東の年長者)、十の対話が収められている。職業も作家、思想家、劇作家、文芸評論家、歴史研究者と多彩だ。 そこでの東に既成の権威に食ってかかっていったイノベーター、破壊者としての姿勢はほとんど感じられない。むしろ個人的な主張を振りかざすよりも聞き役にまわり、自分自身をアゴラ(広場)、つまり多数の意見が出会うためのプラットフォームにしようとしているようにも見える。「ヨーロッパの哲学はソクラテスから始まった。ソクラテスはただ話した。プラトンのように書かなかったし、アリストテレスのように体系も作らなかった。(略)この時代のこの国で、ソクラテスをやりなおすためにはどうすればいいのか」。この二冊の中で何度か言及される東が経営する出版社・イベントカフェ「ゲンロン」もまたそうした営みのひとつと位置付けられている。『新対話篇』の対談の大半は、そのゲンロン・カフェで行われたものである。アカデミズムの内部で精緻な理論を講釈するのでも、アクティヴィストとして路上で変革を語りかけるのでもなく、「ゲンロン」という具体的な場所とそこに集まる多様な人々を生み出すことを重視しているのだという。ある意味では個々のオピニオン以上に、そうした空間こそが哲学の存立条件だからだ。 だから対話の中でも、「こうすべきだ」というような明確な方向性が提示されるわけではない。話題は網の目状につながりながら、ゆったりと移行していく。 とはいえ、複数の対話を通して浮かび上がってくる主要なテーマは存在する。〈家族〉、〈天皇〉、〈観光〉、〈継承〉といったものがそうだろう。一例として〈天皇〉を取り上げよう。中沢新一は植物霊を祀るイエとして天皇家を評価し、そこに国家でも個人でもない連続性があると言う。また高橋源一郎との対話では家業=ブランドの例として天皇制が語られている。一方原武史との場合は、はるかに散文的なやり方で夫婦関係に入りこんだ宗教の働きや行幸の政治的役割といった観点から天皇家を読み直していく。そこから見えてくるのは、歴代の天皇夫妻もさまざまな条件を引き受けながら自覚的な政治的アクターとして振る舞っているという当たり前といえば当たり前の事実である。しかしこれは中沢や高橋との対話にあったエコでロマンチックな天皇像を遡及的に書き換えているように見える。と同時に、家族や継承のテーマもうち重なりつつ検討されている。 最後に付言すれば、評者は東は無意識に特定の〈場所〉とそこにいつの間にか〈憑くもの〉という主題を追いかけているのではないかという感想を持った。死者、祖霊、天皇といった存在はそのようなものだが、子供も具体的で固有な家族のもとに生まれ落ちるほかなく、フィクションのキャラクター(登場人物)はテクストそのものと切り離せない。おそらく彼は思想や芸術もそうした〈場所〉に宿る営みとして捉え直そうとしているのではないだろうか。場所なくして憑霊はなく、憑霊なくして歴史もコミュニティも維持できない。「ひととひととの会話にはもともと大量の剰余=誤配があり、ある主張の背後には論理だけではないさまざまな物語が付随していて、議論の発展や融合のためにはそれらがきちんと衝突する場をつくるのが大切だということです」。 近年の東浩紀の思想を理解するために最適の二冊だと思う。(くらかず・しげる=作家:Twitter@kurageru) ★あずま・ひろき=批評家・哲学者。東京大学大学院博士課程修了。著書に『動物化するポストモダン』など。一九七一年生。