――「すべてを説明しようとする思索」の真剣さを反映――白石純太郎 / 文芸評論家週刊読書人2020年11月20日号西田幾多郎 生成する論理 生死をめぐる哲学著 者:氣多雅子出版社:慶應義塾大学出版会ISBN13:978-4-7664-2690-8 二〇二〇年は西田幾多郎、生誕一五〇年の節目の年だ。日本で初めて体系的な哲学理論を構築した彼の評価は高まるばかりである。例えば二〇一八年に刊行された『福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅』(池田善昭・福岡伸一共著、明石書店)はベストセラーとなり、福岡の生命科学理論と西田哲学の相似性を示すことによって西田の論理がアップデートされた。またその続編ともいうべき『西田幾多郎の実在論 AI、アンドロイドはなぜ人間を超えられないのか』(池田善昭著、右同)においてはロゴス(理性)に根付いた「モノ」についての思考である「存在論」から、対置されるピュシス(自然)から考え始め生成変化を主題に考えるあり方、つまり「コト」を対象とする「実在論」の方向から西田哲学を照射し、その哲学のアクチュアリティーを証明した。今年には、石川県立専門学校に通っていた頃から死の年まで唯一無二の親友として、西田哲学体系の成立にも大いに寄与した仏教学者・鈴木大拙の人生とともに、西田の歩みを題材にしたオペラ『禅〜ZEN』が上演されるなど、話題に事欠かない。まさに「西田幾多郎ルネッサンス」とも呼ばれるべき再評価が行われているのだ。 一方でそのような西田哲学にまつわる問題として、「西田語」とまで言われるジャーゴンを多用し難解な論を進めるというところがある。自覚、絶対無の場所、具体的一般者、永遠の今、絶対矛盾的自己同一、逆対応、平常底……と枚挙にいとまがない。と同時に、書かれた年代によってジャーゴンの意味が変わってくるという厄介な問題がある。この本では西田の論文を年代ごとに精査することで意味の移り変わりを説明している。加えて西田自身が「論証を基礎とする通常の哲学的な論の進め方ではない」独特の論理を構築しているという点を指摘するとともに、なぜそのような論の進み方になったのかも説明している。 西田の思考に必ずついてまわるのが矛盾という言葉だ。出発点は初の論集である『善の研究』における純粋経験の探求である。主客未分であり言葉にすら表すことのできない「経験そのもの」が純粋経験だ。そういった性質を持つ純粋経験を言葉で語るということ自体が矛盾なのである。しかし矛盾するというあり方でしか、純粋経験の説明はできない。そこで彼は矛盾を論理的に肯定する。それは後期西田における「絶対矛盾的自己同一」の概念にも現れている。極めて卑近な例を挙げると、肯定することは否定するということを考えずには考えられない。同時に否定はその反対の肯定を考えなければ考えることは不可能である。よって肯定即否定、否定即肯定の絶対矛盾的自己同一という状態になると考える。これが西田の論理なのだ。そこでは矛盾が矛盾のまま、対立が対立のまま止揚され統一されている。そのような弁証法の中で、分裂と統一がうごめく細胞のように果てしなく続く。 西田の多難な人生や参禅経験からくる心境の変化などの自伝的要素を一切廃した本書からは、逆説的に西田の人生が浮かび上がってくるようである。純粋経験が成立するところのものである「場所」の理論から、さらに議論を発展させ存在がいかに可能であるのか、そして存在とはどのような状態のことをいうのか、読者に考えさせる。めくるめく思考のすえに自己の実在全体が、のっぴきならない仕方で探求され、辿り着くのは「人間の営みが全て同じ土俵の上に置かれる」地点である。そこで問われるものこそ「宇宙人生の究極の問題」と呼ばれる「いかに善く生き、いかに善く死ぬか」ということだ。それを徹底して考える営為は「真剣に生き、真剣に死ぬ」ということに他ならない。時には矛盾を論理に組み込むといった西田の「すべてを説明しようとする果てしない思索」の真剣さを反映した論理の探求が、本著の最大の特徴である。絶え間ない論理の生成の微細を明らかにしながら、ダイナミックで力動的な西田哲学理解を行うこの本は、「西田幾多郎ルネッサンス」の良き手引書となっている。(しらいし・じゅんたろう=文芸評論家)★けた・まさこ=京都大学名誉教授・宗教哲学。日本宗教学会会長を務めた。著書に『宗教経験の哲学』(日本宗教学会賞)、『ニヒリズムの思索』など。一九五三年生。