――多種多様なアメリカ現代詩へと誘う――山内功一郎 / 早稲田大学教授・アメリカ詩週刊読書人2020年4月24日号(3337号)アメリカ現代詩入門 エズラ・パウンドからボブ・ディランまで著 者:原成吉出版社:勉誠出版ISBN13:978-4-585-29192-3アメリカ詩の入門書と言えば、新倉俊一の『アメリカ詩論――同一性の歌』(一九七五年)、金関寿夫の『ナヴァホの砂絵――詩的アメリカ』(一九八〇年)、川本皓嗣の『アメリカの詩を読む』(一九九八年)等がたちどころに思い浮かぶ。これらは今なお瑞々しい魅力を放っているが、それはそれとして、ずいぶん前からこの分野の入門書もアップデートが必要な段階に入っていた。そんな中でついに登場した一冊が本書である。全十六章中で紹介されている詩人たちは、エズラ・パウンドやウィリアム・カーロス・ウィリアムズ等のモダニストたち、その次世代にあたるブラックマウンテン派のチャールズ・オルソン、告白派のロバート・ロウエル、ニューヨーク派のフランク・オハラ、ビート派のアレン・ギンズバーグやゲーリー・スナイダー等。最終章のスポットライトの中に登場するのはボブ・ディランだ。しかも男性詩人ばかりでなく、マリアン・ムーア、アドリエンヌ・リッチやエリザベス・ビショップ等の女性詩人による作品にも各章が充てられている。もちろんこういった選択には異論がつきものではあるだろうが、多種多様なアメリカ詩の世界へと読者を誘うにはもってこいの詩人選であり作品選だと言っていい。 では選りすぐりの詩の素顔に、本書はどんなふうに迫るのか。著者自身によれば、詩を読む際の参照点は「三つのS」でおさえることができる。すなわち、「サイト」(sight)、「サウンド」(sound)、「センス」(sense)。これらは順に言葉の視覚性、音楽性、意味性と言い換えられうるが、いずれにしてもこういった基本的なポイントをおさえつつ詩とのコンタクトを試みるところにこそ、原氏の持ち味がある。そして氏による鑑賞がひときわ魅力的な光を放つ瞬間は、サイトにゆったりと視線を注ぎ、サウンドにじっくりと耳を澄ましているさなかに訪れる。そんな瞬間にこそ、詩はこちらが予想もしていなかったようなセンスまで示してくれたりするのだ。こういった体験を得るチャンスは本書のそこかしこに潜んでいるからどこから読み始めてもいいのだが、私としてはやはり巻頭から順に読み進めることをお勧めしたい。そうすれば、モダニズムに端を発するイメージと韻律の革新が、どんなふうにディランの作品「激しい雨が降りそうだ」へと流れ込んでいるかが手に取るようにわかる。いやそればかりか、アメリカ詩のエッセンスをたっぷり吸収したディランの歌が、「声の文化」としての詩的伝統に息を吹き込むことによって、現代詩人たちのために詩のオリジンへと至る道を用意したことまでがわかるはずである。このような詩と歌の双方向的なやりとりが成立するアメリカ文化の健全性は、やはり捨てたものではない。 ところで、本書を読んでいる間に幾度か私の脳裏をよぎったフレーズがある。すなわち、「言葉のさなかで生じる知性のダンス」。これはパウンドが詩の本質を説く際に発した言葉だ。もちろん知性は意味性と近いが、だからといって詩の意味ばかり詮索し続けていたら活きのいい知性には出会えない。なぜならば、それは視覚性と音楽性が躍動する言葉のさなかにおいてこそ姿を現すものなのだから――ざっとそういったことを原氏もまた教えてくれているのだと気づけば、かつて自らのことをただの「ソング&ダンス・マン」だと言ってのけたディランの姿もくっきりと見えてくる。いや、うっかりそんなふうに本書を要約してしまったら、少々きれいにまとめすぎだろうか。ともあれ、ダンスする詩と歌の切っても切れないパートナーシップに思いをめぐらせながらまた読み返したくなるのが、この入門書であることは間違いない。今後もきっと話し相手であり続けてくれるに違いない友人のような一冊との出会いを、心より喜びたい。(やまうち・こういちろう=早稲田大学教授・アメリカ詩) ★はら・しげよし=獨協大学教授・アメリカ現代詩。ビート・ジェネレーションの日本への紹介者の一人。訳書に『野性の実践』『終わりなき山河』(共訳)『絶頂の危うさ』『リップラップと寒山詩』など。一九五三年生。