――翻訳とアナリーゼと精読、不可分の技法で形成された批評態度――小野俊太郎 / 文芸評論家週刊読書人2020年10月16日号照応と総合 土岐恒二個人著作集+シンポジウム著 者:土岐恒二著/吉田朋正編出版社:小鳥遊書房ISBN13:978-4-909812-28-5 千ページを越える物理的にも重い本だが、それもそのはずで、「土岐恒二個人著作集」と「シンポジウム」の二部構成なのだ。前半には、土岐の生涯にわたる評論や翻訳が、内容別に八章に分けて並べられ、後半には、論文から回想まで、弟子や同僚や縁ある人々の寄稿が十六本収められている。通常なら二冊となる分量が一冊にまとめて出版されたおかげで、書題にもなった「照応」関係をすぐに確認できるのが利点と言える。 とはいえ、鬱蒼たる森のような文章群をたどるには、出発点を定める必要があろう。さしあたり、都立大学の学会誌『メトロポリタン』に載った「W・B・イェイツの円環思考」と「パウンドの詩法」の二本の若書きを眺めると、土岐の初心とその後の展開が理解できる。本書はその『メトロポリタン』の特集号から誕生したのであり、全体にリトルマガジンのもつ親密さが漂っている。 「W・B・イェイツの円環思考」を読むと、土岐の基本をなすのが、作品を精読しアナリーゼ(分析)を施す作業だ、とよくわかる。詩の引用が原文のまま置かれることはなく、訳の形で解釈が添えられる。しかも、複数の解釈を検討した上での選択だ、と土岐ゼミでの体験を伊達直之はさりげなく述べていた。精読の手続きをとるのは、詩や小説や旅行記など対象を変えても同じなのである。土岐の精読法を引き継いだように、高岸冬詩は英語の接続詞のひとつに注目し、キーツからヒーニーやマクニースまでの詩に眠る共通点をえぐってみせる。 「円環思考」の参照枠として取り上げられたのは、マージョリー・ニコルソンやジョルジュ・プーレ、そしてボルヘスであった。彼らの提唱する円環思考や、さらに重ね書きなどの発想が援用されることで、不可視になっている系譜を見出し、歴史を再編するのが批評行為とつながる。伊達直之が第一次世界大戦の戦争詩人を「形」で捉え、編者でもある吉田朋正が詩の隠喩を支える「コピュラ」という仕掛けを持ち出すのも、こうした学統に連なると言えるだろう。 最初期の文章である「パウンドの詩法」は「エズラ・パウンドの詩人としての声価には常に翻訳者という評語がつきまとっている」と始まっていた。土岐が翻訳を重視する理由はここにある。思索の成果として、コンラッド、クッツェー、ボルヘス、ムヒカ=ライネスなど英米にとどまらない訳業が残された。本書に転載されている翻訳も、パウンドのダンテ論に始まり、ジョイスやイェイツさらにはパノフスキーやコルターサルなど、内容も使用言語も多彩である。翻訳とアナリーゼと精読は不可分の技法で、確固とした批評態度を形成している。評論と翻訳を分けずに交互に並べた編者の狙いもそこなのだ。高山宏はポーの短編のツボを、巧みな野崎孝訳を利用しながら論じている。そして、土岐を含めた三者の「批評=翻訳」への態度の近さに触れていた。 パウンドは、イェイツ、ジョイス、T・S・エリオットといった大物の「師匠」でもあった。ワイルドにとってのペイターだが、土岐には篠田一士がそれにあたる。土岐の専門である世紀末芸術をサンボリスムとみなすのは、篠田の主張でもあり(『世紀末芸術と音楽』)、本書所収の「世紀末とサンボリスム」という座談会でも、並み居る論客相手に、土岐はその主張を敷衍してみせる。アメリカ詩が専門のせいで客観視できた富山英俊により、師弟の違いも描き出されていて興味深いのだが、土岐本人は、「日本におけるボルヘスの受容」で、篠田が果たした役目を高く評価し、同時にボルヘスの受容と翻訳そのものに、師匠の批評の出発点を見定めていた。 篠田譲りのクラシック音楽好きのせいで、アシュベリーの詩にエリオット・カーターがつけた曲を論じ、パウンドの追悼文でストラヴィンスキーへの言及も忘れない。それに反応してみせたのが、富士川義之による音楽評論家の吉田秀和論で、連歌の匂い付けのような応答に感服した。 最後に評者の思い出をひとつ。P・B・シェリーの『プロメテウス解縛』のゼミの初回時に、土岐先生は穏やかな口調で、冒頭にあるギリシア語の引用の意味をリデルの辞書で確認したのか、と全員に問いただしたのである。その後泣く泣く研究室のリデルを引く習慣がついた。「エドマンド・ウィルスンの批評」で、リデルを言祝ぐ批評家の姿に楽しそうに触れているのが、少々恨めしい(リデルの娘の名前がアリスと気づいたのは、ずいぶん後だった、と正直に告白しておく)。 授業でハートマンの「詩神の巡歴」論を聞いたおかげで、トマス・グレイの手になる、詩神がギリシアからイギリス(表紙絵を描いたブレイクの「甦るアルビオン」)へと各地を遍歴しつつ行進する詩が頭から離れなくなった。ギリシアが鍵だ、と見据えるならば、本書の冒頭に置かれた「ワーズワースのオルペウス的言語宇宙」も理解しやすい。ジョイスはもちろん、『オデュッセイア』の中世ラテン語訳の英訳で始まったパウンドの「キャントーズ」の話をもっと読みたかった。それでも、本書を紐解くならば、森の向こうから巡歴する詩神ならぬ土岐恒二の姿が見えるのは間違いない、と私は思う。(おの・しゅんたろう=文芸評論家)★とき・こうじ(一九三五~二〇一四)=東京都立大学名誉教授、文化女子大学教授(二〇〇六年退職)。英国世紀末文学を専門とする学究として活躍する一方、幅広い視点を持った世界文学の紹介者・解説者として知られた。ボルヘス『不死の人』『永遠の歴史』など、ラテンアメリカ文学の重要作品、英語圏文学ではメルヴィル『タイピー』、コンラッドの『青春』『密偵』など古典作品から、エドマンド・ウィルソン『アクセルの城』のような批評書、J・M・クッツェー『夷狄を待ちながら』のような現代的作品まで多彩な訳業を遺した。